第八百九十八夜 武蔵野探勝のこと

 今宵は、武蔵野探勝について書いてみよう。武蔵野探勝会というのは、虚子の「ホトトギス」が始めた最初の吟行句会である。それまでも、各々では、自然に親しみ、旅をしたりして作句をしていたのではあるが、句会としては、運座と呼ばれ、題詠が主であった。

 虚子が写生を進め、客観写生、花鳥諷詠を説いていくなかで、その「花鳥諷詠の写生の最も大事な場が吟行である」という確信をこの武蔵野探勝を通じて得たのであった。虚子はいつも、実践をしてゆく中から確信を引き出す人であった。

 武蔵野探勝会が始まったのは、昭和5年8月27日、当時の東京府下北多摩郡府中の大国魂神社辺りで行われたのが第1回目。最終回の第100回目は昭和14年1月8日、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮初詣であった。

 その全100回、延べ9年間に亘る武蔵野探勝会の出席回数は虚子が95回とダントツであり、途中ヨーロッパへ外遊していた期間以外は全て出席であった。市川東子房(ホトトギス編集長)が87回、柏崎夢香が84回、本田あふひが78回、安田蚊杖が78回の探勝会の幹事たち、鈴木花蓑が78回、小林拓水が77回、富安風生が74回、麻田椎花が72回、大橋越央子が71回、赤星水竹居が70回、池内たけしの65回である。

 その他出席者は、ホトトギスの有力俳人、水原秋櫻子、山口青邨等の東大俳句会のメンバーたちで、虚子が信頼出来、俳句の実力のある少数精鋭のグループである。

 毎回、吟行会の記事をホトトギスに「武蔵野探勝」として掲載した。この100回の記事は昭和18年、甲鳥書林から『武蔵野探勝』上、中、下の3冊本として出版された。

 『武蔵野探勝』が、現在でも読んで面白いと思われるのは、1つは、ホトトギス第二黄金期といわれる時代を作った俳人、後にそれぞれ独立し一家を成し、今でも私たちがよく知っている俳人たちが多いからであり、1つは、まだ当時、句会は題詠で行われるのが主流であったのが、初めて吟行というものに情熱を傾けた勢いが、句からも文章からも感じられる。9年間100回続けた足跡だからであろう。

 さらに『武蔵野探勝』は、吟行地へ立っての、季題の見つけ方など、私たちの良い指針ともなるにちがいない。
 
 虚子は『五百句』に11句、『五百五十句』に21句を、この武蔵野探勝会での作品を入集している。
 
 目次を追っていくと、第23回は、石神井の三宝寺池であった。昭和26年から、石神井公園の近くに住み暮らしている私は、興味を覚え、まず、当日の担当の本田あふひの文を読み始めた。
 あふひは、次のように書き出している。
 
 「石神井は池袋で武蔵野線にのりかへ、約40分で、石神井駅へ着く。公園まで十町ほどもあるらしい。どこからが公園やら分からない、別に門らしいものもない、はづれると夏草の径となつて直に沼のやうな池が見える。2、3人が一緒に渡ると一軒の料理屋がある。12年前に末枯の自分に15、6人で吟行して、畑の大根を煮さして夕餉を取った事のあるところであり、今度もここを目指してやって来たのである。
 この上の山に三宝寺といふお寺がある。今迄に2度の火災にあつて焼失したさうである。今は僅に残った庫裏の一部を改造して仏像(女体)が安置してある。」

 文章や文中の句から、90年前にタイムスリップしたような気持になった。現在の公園を彷彿とさせる箇所もたくさんあって興味深かった。だが、池が現在のように2つに分かれているように感じられないのが、どうしても気にかかった。

 私は、練馬区役所に問い合わせてみた。昭和7年は板橋区であり、練馬区となったのは昭和23年であるという。さらに、板橋区役所に電話で問い合わせると、区史編纂の係の方が、昭和7年10月から板橋区となった石神井村の昭和8年の地図を調べ、区史にあたって、地図も記事もファックスで送ってくれて、私はようやく、あふひの文の謎が解けたのだった。

 当時は現在の三宝寺池だけで、現在の石神井池であるボート池は、三宝寺池から流れる石神井川添いの水田であったのだ。三宝寺池へは、現在の西武池袋線の石神井公園駅、当時の武蔵野線の石神井駅である。昭和5年風致地区に指定され、また天然記念物に指定された沢沼植物の群生地としても有名であったので、三宝寺池は、地元と武蔵野鉄道が協力して人の集まる公園として開発中の、賑やかな行楽地であったのである。

 という具合で、石神井の三宝寺池の記事一つでも、何だか楽しくなってしまった。

 当日の虚子選に入った句の一部を挙げる。

  河骨を見てゐる顔がうつりけり 青邨
  ありそめし藺の花水に沈みをり 素十
  浮洲ありあやめが咲いて茶店あり 風生
  夏草に橋新しくかけられし あふひ
  浮島の道の左右のかきつばた 東子房
  浮巣見てビールを飲んで休みをる 立子
  漕きよせて浮巣を囲む句舟かな 椎花
  遊舟や帯に扇を挟みたる 蚊杖
  親鳥の近づき行きし浮巣かな 花蓑
  子を連れし浮巣の上のかいつむり 夢香
  親鳥のうしろ向きなる浮巣かな つる女
  えごの花散りしく水に漕ぎ入りぬ 越央子
  ふみしだくえごの落花の径かな 奈王
  青葭の音のよろしく佇ちにけり 風生
  競泳やぺんぺん草の花高し つる女
  田がらしの咲きつゞきたる小川かな すすむ

 また、当日の虚子の句は次の句である。『句日記』より。

  水底に河骨の花動き居り
  萍に雨のやみたる水の面かな
  河骨の花に水泡の上りたり
  河骨に逆立ちてをる蜻蛉かな
  蛇の来る鳰の浮巣ときけば憂し
  河骨に泛子も静まりかへるかな
  よく滑る沼のほとりや五月雨

 『五百句』には、次の句が入集している。

  夏草に黄色き魚を釣り上げし
       昭和7年6月5日 武蔵野探勝会。石神井、三宝寺池。
 
 甲鳥書林から出版の『武蔵野探勝』の虚子の序文を転載させていただこう。

  序
 私が初めて東京に来た明治二六、七年頃は、一寸足を郊外に運ぶと、穂に出た芒の原が遠く連つたり、松林や●林が道のゆく手に際限もなくあつたり、野路には藁葺の百姓屋が点在いてゐて、その前を旅人が荷物を背負つて通つたり、馬が軒端に繋いであつたりして、今日の自動車やトラックなどは元よりのこと、電車も無く、舗装道路も無く、すべてもの静かな武蔵野の俤があるのであつて、日が草から出て草に沈むといつた昔の俤も想像することができないことはなかつた。そんな記憶があつたところから、昭和五年から始めて武蔵野探勝といふものを月に一回催すことにしたのであつたが、扨て実際郊外に出てみると、その明治二五、六年頃の武蔵野とは大分変化してゐた。舗装道路が野を貫ひてをり、電車の線路が縦横に走り、森や林は大方伐り拓かれて人家が立ち並び、花芒が遠く連なつてゐたと思つたところが一面に畑になつてゐる、といつた有様で、昔日の武蔵野を観ることが出来ないのに今更ながら驚いたのであつた。けれども、神社仏閣、山川湖沼、その他ところどころに残つてをる名勝非名勝の地を探つて、そこに武蔵野の名勝の名残を求め歩いたのであつた。これが昭和五年八月から昭和十四年一月まで壱百回の数を重ねたのであつた。此探勝といふのは、ホトトギスの同人其他の人々が一日の吟行をして得たところの俳句を題材として、其を文章に綴つて「ホトトギス」誌上に発表したものである。其文章の体裁等はすべて筆者に任せて精疎繁簡一で無いのであるが、其等も自ら其境地や興味によつて相違してをるところもあるのである。又時には、武蔵野を突破して遠く出向いたこともあるのであるが、それらもすべて感興の赴くままであつて、必ずしも縄墨に拘泥しないのである。今度これを甲鳥書林から書物にして発行するに当つて、写真や地図を挿入することになつたのであるが、すべてそれは、書肆の随意にした。

      昭和十七年五月十五日   ホトトギス発行所に於いて 
                          高濱 虚子