第九百三夜 高浜虚子の「胡瓜」の句

 夫の畑では、今「胡瓜」が毎日のように穫れて、しかも一本が見事に長くて太い。「工夫して美味しく食べてくれよ!」と言うけれど、胡瓜は栄養価も高くはないし、煮物にも揚物にもならないし、サラダ系にしかならないから、工夫のしようもないなあ・・食べ切れそうにもないなあ・・。
 犬のノエルのおやつは、今は、甘くて美味しいものではなく、胡瓜であるが身体にはいいかもしれない。何をあげても尻尾を振って、美味しそうに食べてくれる犬なので、ありがたい。
 
 今宵は、「胡瓜(キュウリ)」の作品をみてゆこう。

  人間吏となるも風流胡瓜の曲るも亦  高浜虚子 『五百句』
 (にんげんりとなるもふうりゅう きゅうりのまがるもまた) たかはま・きょし

 掲句は、大正6年5月12日、虚子が、虚吼、吏青嵐、煙村、楚人冠たちと鶴見の花月園みどりに集まって句会をした時に投句した一句である。吏(り)はお役人のこと。
 次にようになるであろうか。
 
 人間は出世してお役人になることも風流と言えば風流かもしれない。役人である吏とは、人も羨む生き方かもしれないが、胡瓜がまっすぐでなく曲がっていることを羨むのということと同じようなものさ、となろうか。
 

  へぼ胡瓜盆の仏の馬になれ  松野自得 『新歳時記』平井照敏編
 (へぼきゅうり ぼんのほとけの うまになれ) まつの・じとく

 昔の人は、お盆の供物にする茄子や胡瓜で、わが家を訪れてくださる仏様のための乗り物の用意をした。私の祖母の元気な頃には、テーブルを囲んで、茄子や胡瓜や割箸を使って「胡瓜の馬」「茄子の牛」を作ったものであった。小学校の低学年の頃の、今から70年近くも昔のことであった。
 
 庭の畑から採ってきた形の悪い「へぼ胡瓜」が、ゆかいな形の馬になった。母でなく祖母が、何でも手作りをしてくれた。クリスマスの飾り付けなど、捨てるのはもったいなくて母が仕舞っておいてくれたものを、私の娘の七夕飾りやクリスマス飾りに、プラスして使っていた。
 「ママのおばあちゃんが、むかし、作ってくれたものよ!」と、私。
 「わたしのおばあちゃんじゃなくて、ママのおばあちゃんなのね・・!」と、娘。

  胡瓜の葉うごくに深き空を知る  川島彷徨子 『新歳時記』平井照敏編
 (きゅうりのは うごくにふかき そらをしる) かわしま・ほうこうし

 胡瓜の蔓は、支柱へ絡み付きながら、上へ上へと伸びてゆく。葉も大きくなり上に伸びながら葉を揺らしている。揺れる葉の間には空がちらちら見えている。
 
 川島彷徨子さんは思った。目の前の葉はすぐそこにあって動いている。その動いている葉の奥を見たとき思ったのだ。「ああ、この胡瓜の葉の動いている彼方には、大空があるのだった。しかも広いだけでなく、深くて広い大空があるのだった。」と。
 
 空の広さではなく、空の深さに気づいた彷徨子さんは、「空が深いものであることを知った」と詠んだ。空は平面ではなく、空は宇宙の永遠の彼方へと果てなく遠くつづいている、それを「深き空」と捉えたのであった。