第九百九夜 景山筍吉の「露涼し」の句

 早朝の散歩で気づいたのが、広い空地に茂っている夏草に、朝露がいまにも落ちそうでいながら葉に留まっている、しとどの重たげな露である。「露」は秋の季語だから、今の季節に大丈夫かしら・・でも俳句に詠んでおきたい。
 
  夏草や露千万の夜が明ける あらきみほ
  
 こう詠んでみた。「夏草」は夏、「露」は秋の季語だ。季重なりになるのではと思って、深見けん二先生の「花鳥来」でご一緒していた小泉洋一さんにメールした。次のような返事を頂いた。
 
 「無頓着にというと語弊がありますが、頭で考えるのではなく、見たまま、感じたままを、客観写生という技法を用いて描写されると、このような句も生まれるのです。」と。
 
 私は、「夏の露」も「露涼し」も、季語として用いたことはなかったから、この返事に「あっ、このままで、この句は生きた!」と、ほっとした。
 
 今宵は、「夏の露」「露涼し」の作品を見てみよう。

  露涼し寝墓に彫りし聖十字  景山筍吉 『ホトトギス新歳時記』
 (つゆすずし ねばかにほりし せいじゅうじ) かげやま・じゅんきち

 聖十字の彫込のある寝墓の上に、朝の露が下りていて涼し気ですね、となろうか。火葬するのではなく、焼かずに、棺に入れたまま埋葬したものが寝墓である。日本では、長崎の国際墓地にキリシタンが寝墓で埋葬されている。
 
 景山荀吉は、同じ逓信省役人の冨安風生に誘われて、高浜虚子の東大俳句会で学んだ「ホトトギス」同人であり、敬虔なカトリック信者である。俳誌「草紅葉」を創刊主宰した。

  露涼し朝ひとときの畑仕事  津田柿冷 『ホトトギス新歳時記』
 (つゆすずし あさひとときの はたしごと) つだ・しれい?

 津田柿冷さんのお名前の読み方が、調べがつかなくて分からなかった。「しれい」でよいのだろうか? おわかりの方がいらっしゃいましたら、どうぞ教えてくださいませ。
 
 句意はこうであろう。露が降りていて夏なのに涼しさの感じられる早朝のうちに、畑のひと仕事を片づけてしまいましたよ、となろうか。

  朝の間の露を涼しと芝歩く  稲畑汀子 『ホトトギス新歳時記』
 (あさのまの つゆをすずしと しばあるく) いなはた・ていこ
  
 写真で拝見しただけであるが、広いお屋敷と芝生に覆われた広い庭園があり、稲畑汀子邸に隣接して虚子記念文学館がある。稲畑汀子さんが虚子記念文学館に用があるときには、きっと、まだ開館される前の、朝露の下りている芝の上を歩いていかれたのだろうか。