第九百十一夜 高浜虚子の「ほとゝぎす」の句

 畑仕事が好きな夫が、この地に越してきて最初にしたことが畑を借りて種まきをしたことであった。バラバラ、ドサッと蒔いていたら、お隣の畑のおばあちゃんやおじさんが、「土をやわらかくして、種はそっと蒔くんだよ」と、見かねて手を出し口を出してくれた。17年目になった今では、スーパーで野菜を買うことはなくなった。
 
 いつも、塩梅のいい大きさの野菜の収穫というわけにはいかないが、やはり新鮮で味が濃いような気がしている。「なかなか旨いだろう?」「うん、すごーくおいしいわよ!」と、逆らわないようにしている。
 「あっ、ネギが切れましたー」「サラダ用の葉っぱ、なにかある?」と言えば、スーパーに私が走ることなく、畑から持ってきてくれるのはありがたい!
 禁句は、「キューリばっかり・・!」
 煮たり焼いたりがしにくい野菜は、重なると・・料理するのも、食べるのも辛いなあ!
 
 畑の途中に、森や林があって、このところホトトギスがよく鳴いている。

 今宵は、「時鳥(ほととぎす)」の作品を見てみよう。 
 

  飛騨の生れ名はとうといふほとゝぎす  高浜虚子 『五百句』昭和時代
 (ひだのうまれ なはとうという ほととぎす) たかはま・きょし

 次の詞書のある句である。
 「昭和6年6月24日。上高地温泉ホテルにあり。少婢の名を聞けばとうといふ。」

 虚子が喜寿になる年に、「ホトトギス」の周りから、虚子先生には女性を詠んだ艶の作品が多いですからと言われて、記念出版したのが『喜寿艶』である。
 
 1頁目に自筆の句、裏側となる2頁目に短い文章がある。
 掲句には、次のような文章が付けられていた。
 
 たしか時事新報の依頼であつたと思ふが、上高地に行つた事があつた。そのとき飯の給仕に来た、色の黒い愛嬌のない少女に、お前の名は何といふかと訊くと、とうと云ふと答へた。珍らしい名だと思つて聞き返したが、とうと再びこたえへた。何処の生れかと訊くと飛騨だと云つた。この上高地では昼も夜も時鳥が鳴いていた。
 二三日滞在して帰る時分に一人の山男が荷物を持つて麓まで行くことになつたが、このとうといふ少女も途中まで送つて来た。梓川の清流に沿うて行くうちに或る大きな岩の所まで来た。向ふには焼岳の麓を通つて飛騨の方から来たといふ話をとうがした。私はその辺からとうにかへることをすゝめた。とうはそこに立ち止つてしばらく私を見送つてゐた。私は夏帽を手に取つて振つた。とうは手を振つてこれに答へた。
  火の山の裾に夏帽振る別れ

 上五中七の「飛騨の生れ名はとうといふ」は、全く事実そのままを詠んだとも言えるが、少女の名が「「とう」という名であることと、当たりで鳴いていたのが「ほととぎす」であることと相俟って、「t」の音が、作品全体をつつむことになった。じつに滑らかな調べの作品である。
 

  山々は萌黄浅黄やほとゝぎす  正岡子規 『寒山落木』巻一所収
 (やまやまはも えぎあさぎや ほととぎす) まさおか・しき

 子規は、生涯に「ほとゝぎす」の句を308句詠んでいるという。もともと「子規」の名は、「血を吐くほととぎす」に由来している。なぜ、こう言われるのかというと、一つは、「ほとゝぎす」は口の中が赤いから。もう一つは鋭い声で鳴き続けるからであるという。
 
 子規の1回目の喀血は、明治22年の水戸紀行の後で、「血を吐くほととぎす」に由来する子規の号を用いるのはこのとき以降である。2回目の喀血は明治28年である。当時勤務していた日本新聞社から日清戦争の従軍記者として子規は従軍しますが、講和が成立したため、一月ほどで大連から帰国の途についた。大喀血は、船上からサメの大群を見たとき起きたのだ。
 この喀血が結果的には、その後の8年に亘る病臥の契機となったのである。
 
 掲句は、「軽井沢」の前書がある。明治24年、房総旅行から帰京した子規は、5日後には菅笠に箕、わらんじ履き房総行と同じスタイルで、夏には木曽道中に出かけた。
 辺りの山々は新緑で、木の芽の色はやわらく明るい萌黄浅黄であった。
 
 この頃の子規は、病臥となる4年前であったが、よもや4年後には、「血を吐くほとゝぎす」のような身の上となり、寝たきりの身になろうとは思ってもみなかったことであろう。