第九百十二夜 寺田寅彦の「昼顔」の句 

 映画『昼顔』の主役を若い頃に演じたカトリーヌ・ドヌーヴは、プルーストの小説『失われた時を求めて』を映画化した『見出された時』にも登場していた。『見出された時』では、カトリーヌ・ドヌーヴは中年を演じているのでなく、実際に中年になった姿を見せてくれた。
 映画のタイトルが『見出された時』であり、『昼顔』と同じフランス映画で同じ女優のカトリーヌ・ドヌーヴが演じている。また映画の観客も、カトリーヌ・ドヌーヴと重ねた年月は似ている年齢層を想定して制作された映画であるという。
 
 映画館で『見出された時』のカトリーヌ・ドヌーヴの、ふとした表情の演技に、ほんの瞬間であったが、観客の私たちにも表情の意味が分かった。このほんの一瞬が、カトリーヌ・ドヌーヴが『昼顔』の中で娼婦となった時の表情の翳であった。
 
 私たち観客は、何もかもが考え尽くされた映画のど真ん中に入れられてしまっていた。そう感じた時に、この映画の面白さが心憎いほどに伝わってきた。
 
 「朝顔」「昼顔」「夕顔」の花のどれもが夏の季語である。不思議なことに、一番翳りを感じるのは、朝顔でも夕顔でもなくて、昼顔であった。  
 昼顔は、夏の野によく見かける、どちらかというと目立たない平凡な花のように感じていたこともあっったので、季語「朝顔」の作品の鑑賞の前に、敢えて、映画『昼顔』を紹介してみた。

 今宵は、「昼顔」の季語を考えてみよう。

  昼顔やレールさびたる旧線路  寺田寅彦 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (ひるがおや レールさびたる きゅうせんろ) てらだ・とらひこ

 今では使うこともなく廃線となった鉄道である。バスが普及してからは、バスの停留所は、これまでの鉄道の停車駅よりも間隔を短くするとか、時には、バス停の位置を変えるとか、住む人の側に立って便利さを優先するなど、鉄道の駅よりも容易に変更もできるようになった。
 
 旧線路は、こうしてレールが錆びてゆき、線路脇に咲いていた昼顔は、誰にはばかることもなく線路まで蔓を延ばすことができたのだ。

  ひるがほのほとりによべの渚あり  石田波郷 『蝸牛 新季寄せ』
 (ひるがおの ほとりによべの なぎさあり) いしだ・はきょう

 茨城県守谷市に住む私は、海が見たくなると、茨城県の埼玉県寄りのハイウェイの入口から入って太平洋岸まで車を走らせるが、守谷市から水戸市をぬけて海辺に出るまでの、茨城県南の底辺という長さを知ることになった。海までの遠いこと! 
 
 昼顔は、雑草に近く、野原や道端などいたるところに自生するヒルガオ科の多年生蔓草で他の草や垣根にからみつく。朝顔は朝に開花し、夕顔は夕べに開花し、そして昼顔は日中に開花するのでこの名がある。
 
 咲いている昼顔がしぼみはじめる頃には辺りの渚は夕べとなってきましたよ、という句意になろうか。

  昼顔に猫捨てられて泣きにけり  村上鬼城 『定本鬼城句集』
 (ひるがおに ねこすてられて なきにけり) むらかみ・きじょう

 「泣く」は、ここでは猫のこと。捨てられた猫が泣いているのだ。「泣く」の表記は人が辛い思いをした時に用いることが多いが、この作品では猫も、人に捨てられて悲しくて泣いているだろうと想像したのであろう。
 
 耳聾(じろう)の村上鬼城には、次の作品がある。
 
  小鳥この頃音もさせずに来て居りぬ
 (ことりこのごろ おともさせずに きておりぬ)
 
 音もさせずにと鬼城は詠んでいるが、鬼城には、芭蕉の弟子で耳聾の杉山杉風のことを書いた「杉風論」がある。
 一部を紹介しよう。
 「誰でも聴き得るという音ではなく、特別の人に限って聴得る音、それが真音(しんおん)にしてそれを聴いて来るのが詩人にして、(略)見て見えず、聴て聴えぬ鬼神を、取ひしぎ来るのが、詩人の感覚なり」と。
 
 耳聾の鬼城には、捨てられた猫の泣き声が聞こえてはいない。聞こえるはずはない。だが鬼城には、猫の悲しげな様子に、猫の心の「真音」が聞こえたのだ、それが、「捨てないで」と叫んでいる猫の真音であり、「泣きにけり」であったのだ。