高浜虚子の句を思い出している。
咲き満ちてこぼるる花もなかりけり 高浜虚子 『虚子秀句』
(さきみちて こぼるるはなも なかりけり)
もう30年近くになるが、私は当時住んでいた東京練馬区の光が丘公園の花の頃の、虚子の句のこの景の瞬間に出合いたいとずっと願っていた。莟の頃から、満開となり、落下するまでの毎日を過ごした。
そろそろ満開だろうと思った朝早く、いつも眺めている大桜の下に佇った。
朝日が上り、茜色はもう消えていた。露をいっぱい含んだ花弁のひとひらずつが透き通るように白く輝いていた。枝々の花は実際は九分咲きくらいであろうが、莟は花に隠れて満開のように見えた。花房はずしりとまあるく重そうである。風もなく、花びら一つ揺らぐことはなかった。
私は、この重量感と存在感と緊張感のあふれている桜の、この姿こそが、〈咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり〉に違いないと確信した。朝の静けさの中で、勿論一片の花びらも散らないままであった。名句なのに、何故か『五百句』には入っていない不思議な句である。
この満開の桜大樹が、能舞台で動きを極端にまで省略して佇むシテの姿に重なってくる。
やっと出合えた!
虚子の『五百句』研究に参加して、この作品を知ってから、虚子の作品を知るには、能を観ておきたいと思うようになり、能楽堂へ通うようになった。明治神宮薪能だけでなく、盛岡市の中尊寺や静岡市の三保の松原での薪能にも車を飛ばしたこともあった。
今宵は、「薪能」の作品を見てみよう。
■
薪燃えて静の顔を照しけり 正岡子規 『俳句稿』明治32年
(たきぎもえて じずかのかおを てらしけり) まさおか・しき
「静」とは、鎌倉時代の源義経の愛妾であり、もと京都の白拍子の静御前のことである。子規は、明治32年に季題「薪能」で7句詠んでいるが、実際に子規が観たものではなく、虚子や碧梧桐から話を聞いて詠んだものであるといわれている。明治32年の子規は、脊椎カリエスを病んで4年目であり、寝たきりの生活の方が多かった頃である。
しかし、子規、虚子、碧梧桐の生地の松山では能楽が盛んであり、虚子の父も能をし、松山藩の廃藩後は、旧藩の能楽保存に尽力したのは兄の池内信嘉であった。
松山には2度訪れたことがある。初代主宰の八木健さんの「BS俳句王国」に出演させていただいた時である。その帰りに松山城に一人で上った。松山市民会館に能楽堂があった。
子規が観た薪能は、松山の能楽堂ではなかったと思われ、掲句は、虚子や碧梧桐から聞いた話からふっと浮かんだ句であるという。
子規の詠んだ7句を紹介してみよう。
ふらでやみし朧月夜や薪能
鉢の木や薪に遠き最明寺
薪燃えて静の顔を照しけり
薪能京より叔父のまかりけり
鹿来る楽屋の外や薪能
冴え返る春日颪や薪能
小夜更し鼓の音や薪能
掲句の薪能は、「船弁慶」または「静御前」であると思われる。どちらの演目にも静御前が登場する。薪能が始まると、シテの静御前は揚幕を出て橋掛かりを、つま先で床をするように「すり足」で歩いてくる。
燃える薪の明るさに能面の片側を照らされながらシテの静御前が、しずしずとすり足で歩いてくるのだ。
■
後ジテの出に風も死す薪能 能村登四郎 『能村登四郎前句集』
(のちジテのでに かぜもしす たきぎのう) のむら・としろう
薪能が催されるのは夏の夜である。夜風が吹いていれば、能管・小鼓・太鼓・太鼓の4種の楽器の音とともに、爽やかな風のなかでの後ジテの登場となる。
この夜は、風がピタリと止んで、なんとも蒸し暑いタイミングでの「後ジテの出」となったのですよ、となろうか。