第八十三夜 阿部完市の「とんぼ」の句

  とんぼ連れて味方あつまる山の国  『絵本の空』

 言葉はやさしい俳句であるが、意味を探ろうとすると言葉は逃げてゆきそうになる。完市俳句の評論を読めば、言葉には意味を持たせないとあった。言葉と言葉のつながりが希薄だから鑑賞がしにくい。句意とか意図を拒否しているのだろうと思うが、なぜか完市俳句に惹かれる。

 第一句集『絵本の空』のタイトルを考えてみた。また抽象画のミロやピカソを考えてみた。どちらも目に映るとおりには描かれてはいない。省略されていることが多く、しかも伝えたい「もの」が、ぽつんぽつんと置かれたままのように見える。
 絵本の作者も画家も完市俳句も、読んでほしい、観てほしい、汲み取ってほしいと思っているのではないだろうか。

 日本語の文字は、英語のアルファベットと異なってばらばらになりにくい。たとえば〈ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん〉など、片言の言葉の集まりであったとしても、大人の考える感覚をとりはらったら、子どものような心には映像として届くのだと思う。
 
 掲句を考えてみよう。
 
 まず、「とんぼ」を季語として詠んでる訳ではないと思う。 
 男の子というのは、何かというと、自分と他のグループと「どっちがつよいか」の決着をつけたがる。授業が終わると、場所を指定してそれぞれが味方を引き連れて山の中へいざ出陣だ。「とんぼ連れて」の言葉が楽しい。「とんぼを連れて」いくのではなく、なにが始まるのだろうと、おそらく「とんぼがついて」きたのだろう。絵本に描けば、やんちゃそうな男の子たち、刀の代わりの棒きれ、見物するトンボたち、低い山、バックは夕焼け色の山の端などが浮かんでくる。このように思った。
 完市は、もっと奥の深さを読み取ってほしいと思うかもしれない。

 阿部完市(あべ・かんいち)は、昭和三年(1928)―平成二十一年(2009)、東京生まれ。精神科医。昭和二十六年「青玄」に入会。その後「未完現実」「俳句評論」に参加。昭和三十七年に金子兜太に師事し、「海程」同人。
   
 もう一句考えてみよう。
 
  栃木にいろいろ雨のたましいもいたり  『にもつは絵馬』
 
 「栃木」は、精神科医の完市が関西から移った勤務先の病院のある栃木県のことであろう。雨の日、静かな雨音に耳を澄ませていると、ふっと一音一音に「雨のたましい」が宿っていると感じた。そう思ったとき「いろいろ」とは、他の万物のあらゆるものにも「たましい」があると感じたのだろう。