第八十四夜 高浜虚子の「霜」の句

  霜降れば霜を楯とす法の城(のりのしろ))  高浜虚子『五百句』
  
 明治三十五年に子規が亡くなると、子規門の双璧である虚子と碧梧桐の俳句観の相違がはっきりしてきた。碧梧桐の進める新傾向俳句は一派を形成するほどになり、虚子は小説家の夢を追いかける方へと傾いていた。だが明治の末期、小説では漱石に一歩先んじられたこと、「ホトトギス」の部数減による経営不振、碧梧桐との俳句上の確執、そして虚子自身の胃腸病からくる体調不良などが一気に押し寄せた。
 このとき虚子が一番に考えたのは「ホトトギス」の経営の立て直しであった。
 
 掲句を見てみよう。

 大正二年一月十九日の句会は、掲句の他にも〈死神を蹶る力無き蒲団かな〉という句もあるように、虚子の目には死神が蒲団の端に座っているのがまざまざと見えたという体調で、当日は病臥のままであった。

 「法城(ほうじょう)」とは寺院のことで、仏法が諸悪から護ってくれる城に喩えたもの。「法の城」として詠んでをり、虚子にとっての伝統俳句の居城・「ホトトギス」を、霜の降る寒い冬には霜を楯(恃み)として守るのだという、まさに虚子の気概が溢れた作品である。

 自分の守るべきものを、虚子は「曰く、風吹けば風を楯とし、雨が降れば雨を楯とし、落葉がすれば落葉を楯とし、花が開けば花を楯として」と言い、強い決意が窺われる。対抗する相手は新傾向俳句だ。虚子は、相手を突く矛(ほこ)でなく防御としての楯(縦)を武器とした。また俳句の法灯とは、「十七文字と季題趣味」であり「この二つの拘束があればこそ俳句の天地は存続するものと考える」と明言した。

 そして、二月には次の有名な作品が生まれた。
 
   春風や闘志いだきて丘に立つ  『五百句』 
  
 これは虚子俳壇復帰宣言のような句で、自註には「今は立つべき時である。雄心を抑えることができないで燃ゆるような闘志を抱いて丘の上に立った。」とある。
 何という明るさの攻めの姿勢に溢れた作品であろうか。

 大正二年は、こうした体調の中で虚子は、さらなる攻めに出た。六月二十七日、麹町区飯田町喜多能舞台にて、「ホトトギス二百号記念文芸家招待能楽」を催したのだ。およそ三百五十名の活躍中の文芸家たちが招待された。この年の「虚子消息」には、六月号と七月号が二回重なったとか毎回のように遅刊の詫びが書いてあるなど、体調不良の中での刊行と、二百回記念という大事業も成し遂げた大変な一年でもあった。

 後に虚子は、「この催しは実にホトトギスの運だめし」と述懐したほどで、「ホトトギス」の刷新は始まったばかりであった。
 〈年を以て巨人としたり歩み去る〉の代表句も生まれているように、「年」を巨人に喩えたのは、虚子にとってこの一年は確かな手応えのある一年であったのだ。芭蕉の「無為無能にしてこの一筋につながる」は、決して諦めず引くことなく「自らを恃んで」ゆく道であろう。