今宵は、深見けん二先生の主宰誌「花鳥来」に掲載してくださった、あらきみほの文章「絵画と俳句」を、「千夜選句」に転載させていただこうと思う。
絵画と俳句 あらきみほ
「シャンソンは語るように台詞は歌うように」と言われるが、奥義のこの言葉を援用するならば、「絵画は詩のように俳句(詩)は絵を描くように」であろう。
父の影響で絵画を観るのが好きである。若い頃はセザンヌ、シャガール、モネ、クリムト、ユトリロ、三岸節子など油絵一辺倒であったが、近頃は、単調だと思っていた日本画が好きになってきた。
奥村土牛(とぎゅう)の描く姿をテレビ・ドキュメントでみたのがきっかけで、土牛展をはじめ、日本画展をしばしば観に行くようになった。土牛は、富士山を何日も何日も飽かず眺め、ある時、堰を切ったように一気に描きはじめるという。
日本画は、色を消すために色を重ねることはできないので、画面取り、筆使い、色使いもいさぎよい。対象物から、どこを切りとり何を省略するかは作家の感性である。特に日本画に感じる「いさぎよさ」が、俳句にとっても”いのち”ではないかと思うことがある。
デッサンの蟻百態のノートあり 深見けん二 『星辰』
(デッサンの ありひゃくたいの ノートあり) ふかみ・けんじ
熊谷守一の克明に描かれた、百態もの蟻のデッサン帳である。守一の絵は、具象を極めきった単純化された線で抽象画とも思えるほどであるが、このデッサン帳に、けん二氏は相通じるものを感じ、魅かれたのだと思う。高濱虚子の晩年の弟子であったけん二氏は、虚子の説いた「客観写生」と「花鳥諷詠」を作句信条としており、吟行にいって、感興を覚えた季題にぶつかると、30分でもそれ以上でも一つの場所にとどまり、座禅をしているかの如く、季題に、自己に対峙している。「客観写生」とは、見て見抜いたあとに見えてくるものを詠むのである。
画家の名を俳句の中に入れて、どのくらい詩的な効果があるのだろうかとも考えるが、感動を受けた作品は、画家の世界への共鳴である。共鳴した世界は、もう自分自身の感性の世界だと思う。
その作品や作家の共鳴した世界が一般的評価を得ていて、普遍性が認められていれば、俳句の中に画家の名を入れたとき、俳句の中に地名を入れて、ある効果が得られるくらいに強い働きがあると考えている。作家や作品の名前を入れることによって、同じような想いを、句の作り手と読み手が共有できる世界があるからである。
考えてみよう。
ルノアール赤くゆたかに若葉雨 日野草城
(ルノアール あかくゆたかに わかばあめ) ひの・そうじょう
ルノアールの筆のタッチは、女性を描いても自然を描いてもまさに、ふくよかでやわらかである。草城の見ている女性の絵に描かれている赤は、赤い服であろうか、一点の赤い唇であろうか、それとも少女のような赤い頬であろうか。季語の「若葉雨」がいい。 薄緑色の触れればまだ柔らかな若葉に降る雨は、回りの景色に解けこんでゆく。そんな若葉雨の中に一点の赤が滲むように解けだしているのである。
凌霄花ゴッホの街は喉かわく 鍵和田秞子
(のうぜんか ゴッホのまちは のどかわく) かぎわだ・ゆうこ
ゴッホの描く、天にゆらめきのぼるような糸杉も向日葵も、真夏に咲きのぼってゆく「凌霄花(のうぜんか)」の季語の力によって、うだるような暑さを表し、「ゴッホの街」と言われると、本当に、いつかしら喉の渇きをおぼえてくる。
鳥渡るセザンヌの山ミレーの田 大串 章
(とりわたる セザンヌのやま ミレーのた) おおぐし・あきら
秋の少しずつ色を違えた紅葉、黄葉は、筆跡をはっきり残すセザンヌのタッチの世界であるし、収穫を終えた田んぼはミレーの絵のようにどこまでも広がっている。「鳥渡る」の季語から読者の我々が鳥になって豊かな秋の大空を果てしなく飛び回っているようである。大きな美の世界へ誘ってくれる句である。
さくらんぼルオーの昏きをんなたち 石 寒太
(さくらんぼ ルオ―のくらき おんなたち) いし・かんた
「さくらんぼ」は、五月の太陽に実が赤くなるのだが、梅雨時に出回り食べる。鬱陶しい雨の降り続くこの頃になると、私はガラスの器に盛ったさくらんぼを横に置いて、ミステリー小説の一夜としたものだ。少し暗い色合いのルオーの絵の中にある明るい赤の一点は、貧しく若い女たちの眼差しに宿る希望の輝きを表現している。季題「さくらんぼ」は取り合わせであるが、付き過ぎもせず、離れすぎもせず、この時代の女のささやかな「希望」を象徴している。
これからも、絵画・美術鑑賞をとおして、素晴らしい作家の視線、感性をいくらかでも盗めたらと願っている。
※参考資料:『秀句350選 26・画』(佐藤和枝編)蝸牛社
『秀句350選 30・芸』(小林貴子編)蝸牛社