第九百二十二夜 前田普羅の「螢」の句

 歌人窪田空穂に次の螢の1首がある。
 
  其子等に捕へられむと母が魂螢と成りて夜を来たるらし
 (そのこらに とらえられむと ははがたま ほたるとなりて よをきたるらし)
 
 東京に住んでいた頃、6月になると「飛んでいる螢」の句を詠みたくなる。「花鳥来」では、句会に参加する場合でも季題の宿題というものはなかったが、6月には「螢」を詠もうと決めていた。
 ある年、父と娘を誘ってホテル椿山荘の「螢の夕べ」に参加した。この「螢の夕べ」はホテルのディナーがセットになっていた。庭園に螢の飛び交う暗闇が訪れるまで、父と娘と私の3人は、豪華な夕食をした。父はもちろん好きな日本酒を飲んでご満悦であった。
 全くの自然のままの螢ではなく集めてきた螢を飛ばしているのだという。螢の数も多く、蛍が近づいて手のひらに止まったり、思わぬ螢とも交流ができた。
 
 またある年は、茨城県に越してから知った、ミュージアムパーク茨城県自然博物館での「螢の夕べ」に、夫と2人で参加した。庭園に降りて行く前に参加者が集合したが、ほとんどが親子のペアであった。
 広大な庭は、歩けど歩けど螢に出くわさない。螢を見つける前に、木をよじ登っているカブトムシを見つけた男の子の賑やかな声に近づいた。男の子はおじさんおばさんに囲まれて、知っている限りの蘊蓄を話してくれた。
 
 今宵は、「螢」の句を紹介してみよう。

  人殺す我かも知らず飛ぶ螢  前田普羅 『図説・俳句』日東書院
 (ひところす われかもしらず とぶほたる) まえだ・ふら

 平成23(2011)年、あらきみほ編著『図説・俳句』を出版した。「花鳥来」主宰・深見けん二先生は、「公平に、俯瞰的に、子規以後の現代俳句の流れを書くことに成功した書として、この本を推薦いたします。」という推薦文をお書きくださった。
 この本を作り上げることは大変な作業であったが、今では書いておいてよかったと思っている。何よりも私自身が俳句について書く際の、時代の流れを追う助けになっているのだから。
 
 掲句の、「人殺す我かも知らず」をどう考えたらよいのか、当時も今も、こうして書こうとする度に悩んでいる。なんとなく解りはじめたことは、人間は不安を抱えて生きているものであって、ふとした拍子に、心のどこかが壊れ、バランスを崩すことがあるということであろうか。

 『図説・俳句』より、前田普羅を紹介しよう。
 虚子は1度中断した「ホトトギス」の雑詠欄を、明治45年7月号より再開した。と同時に、「六ヶ月間俳句講義」「俳句の作りやう」を連載して初心者に指導はじめた。「俳句は17字の文学」「季題を詠み込む」「切れ字が大切」「平明であること」という基本を、丁寧に指導した連載であった。
 やがて雑詠欄には、全国から力のある作家たちの投句が増えた。巻頭作家には、渡辺水巴、原石鼎、前田普羅、飯田蛇笏、村上鬼城など個性ある作家が出てくるようになり、後に、この時期はホトトギスの第一次黄金期と呼ばれるようになった。

 虚子は、毎号のホトトギスに、巻頭作家から2、3人の各人評を試みた。それは鋭い筆力で、一人一人の人生や性格にも触れた丁寧な鑑賞であった。前田普羅を見てみると、「大正2年の俳句界に2の新人を得たり。曰く普羅、曰く石庭」と言い、普羅の句の特徴を「簡素、雄勁」とした。
 

  おとうとのうまれたへやにほたるかご 小2 上野春香 『名句もかなわない子ども俳句170選』中経出版
 
 年子のタロくんが生まれて、病院からお家へかえったときのことだ。外で遊んでいたノンちゃんが「ただいまあ」と帰ったとき、お母さんは「おかえりなさい」と迎えてくれた。
 
 だが今日のお母さんはちがった。これまでだったら「おかえり! ノンちゃん!」と言うや、すぐさまノンちゃんを抱き上げてくれたのに、お母さんの腕には、弟のタロくんが抱かれていた。ノンちゃんのための腕はなかった・・!
 
 弟は、つかまえてきた大事なホタルだって、本当は見せたいほどかわいいけど、このときからノンちゃんと赤ちゃんのタロくんは、ライバル同士になったのであった。