第九百二十六夜 波多野爽波の「金魚玉」の句

 今宵は、波多野爽波の作品を見てみよう。
 

  金魚玉とり落としなば舗道の花  『舗道の花』 昭和28年
 (きんぎょだま とりおとしなば ほどうのはな)

 金魚玉は、ガラス製の丸い球形の金魚鉢のこと。軒端などに吊し藻を入れ、その金魚の泳ぐさまは夏の涼を呼ぶ。
 中七の「とり落としなば」は、とり落としてしまったならばという意味の強い仮定であって、この場合、爽波が金魚玉を落としてしまったということではない。「落としたらどうしよう」と思いながら爽波が金魚玉を抱えているとき、ふと過ぎった「落としてしまった」という幻視である。
 
 ──金魚玉はゆっくりと手を離れ、舗道に落ちた。ガラスの割れる音が響き、水は虹を放ちながら飛び散り、赤い金魚たちは鱗をきらめかせ、鰭を激しく揺らし、硬いアスファルトの舗道に叩きつけられた。八方に散った金魚は灰色の舗道に赤色をちりばめ、瞬間「大輪の花」が咲いた。
 だが、実際には金魚は舗道に叩きつぶされたりはしなくて、爽波の空想の幻視によって舗道に散らばった金魚は、「舗道の花」という美へ昇華したのであった。
 
 爽波は、アスファルト舗装の「舗道」がよほど好きだったに違いない。「舗道」は都会のシンボルであったのだ。
 
 その都会的な「舗道」という題材で、爽波は写生句を作り、空想句も作った。硬い舗道の上の割れたガラス、水のきらめき、やわらかな生身の真っ赤な金魚。これらの硬と柔を上手く合わせ、見事な「美」の世界を構築した。
 しかし「舗道」の語は、一句一章の作品でありながら、二句一章の配合の句のように、季題と同等の位置を占めている。虚子のいう季題趣味、一句の中で季題が主である場合とは異なる季題の使い方である。
 
 高浜虚子は句集『舗道の花』の序で、次のように述べている。
 「一言にして言へば、爽波君の句などこそ、現代俳人の感覚を現はして居る、現代俳句と言つてよかろうと思ふ。然も現代俳人と称へる者の陥つて居る、怪奇蕪雑な措辞でなく、洗練された、形の整つた、いゝ意味の近代的俳句である。」
 
 虚子が爽波の俳句を現代俳句であると指摘したのは、季題の使い方の新しさであろう。
 句集『舗道の花』は、昭和15年から昭和28年までの作品である。当時のホトトギスは、既に大家の素十や青畝や青邨、人気絶頂のたかしや茅舎や杞陽、ホトトギスを離れていたが絶大な人気の草田男などの作家が犇めいていた。ホトトギス以外では新興俳句運動の作家たち、またホトトギスを去った秋桜子や誓子、草田男も含めて楸邨や波郷の人間探求派の作家たちが活躍していた。戦後になると社会性俳句や前衛俳句などが起こり、爽波はまさに時代の風を受けた。

■爽波の写生

 『舗道の花』の中扉に、次の爽波信念の言葉が書かれている。
 「写生の世界は自由闊達の世界である。」
 爽波は、生涯「写生」を信じ貫いた人で、徹底した写生派であった。

  鳥の巣に鳥が入つてゆくところ  昭和16年  

 昭和56年の「青」三百号記念号で、京極杞陽は「波多野爽波小感」の中で、次のように述べた。
 「爽波君は虚子先生の〈新は深なり〉という信念を否定してきた人である。」と。
 だが爽波は、写生の道も常に新しさを目指すことは必然だという考えであった。虚子の「新は深なり」を否定した爽波は、「写生の新しさ」を生み出すための独自の方法を考えなければならなかった。
 
 その一つの突破口として、赤尾兜子、鈴木六林男、堀葦男、林田紀音夫、島津亮など前衛作家たちとの交流があった。この期間の爽波は、「ホトトギスに弓を引いた」とか「前衛化している」と批判されたこともあったという。
 この頃の作品を挙げてみる。

  冬浜を去るや/一戸の表札読み  昭和41年
  家ぢゆうの声聞き分けて/椿かな  昭和58年

 意味が切れる箇所に/を入れてみた。一句の中で互いに関係ない二つの事実が詠まれている。切れを入れてみると、この空白が面白く思えてくる。前衛俳句の作家の言葉はもっとシャープで難解であるように思うが、爽波俳句の言葉はどこか穏やかである。二つの事柄のそれぞれの言葉の平明さは、爽波の身についた写生の技のなせる所以であろうか。
 1句目、意味を持たない目の動きをよく捉えている。
 2句目、家中の声を聞き分けているのは、花の椿かも。
 
 もう一つの試みが、爽波の多作多捨論や俳句スポーツ説であり、句集のあとがきには必ずこの「多作」に触れた。
 「多作こそは私が虚子先生から学んだ端的な教えであり、大変に貴重なものと受けとめている。」(『骰子』)
 「相変わらず「多作多捨」に徹して励んでいるが、これによって如何に技に磨きをかけ得るか、またどれだけよき出会い、偶然に恵まれるか、自力を越えた他力を引き出し得るかなど、道はなお遠いと言わざるを得ない。」(『一筆』)
 
 俳句スポーツ説は、爽波が「京大俳句会」の若者たちに言ったことが始まりである。水泳選手であった爽波は、スポーツを例にとって観念的な論議ばかりでなく、理論よりは実行、練習に練習を重ねた「芸」を身につけることを説いたものである。虚子が「能」に喩えて鍛錬の大切さを説いたように、爽波は、「写生」もスポーツの練習を積むがごとく、ものに即して反射的に対応できるような「体力づくり」が大切だと説いた。眼前のものを速写する方法である。

  梅雨はげし傘ぶるぶるとうち震ひ  昭和24年
  赤と青闘つてゐる夕焼かな  昭和27年

 この2句は、ことに私の好きな作品である。爽波の句は、季語へのアプローチが独特で、季語を今までなかった新鮮な俳句的アングルで捉えている。主観が感じられない爽波俳句は不思議に乾いた感覚である。スポーツ中継を淡々と実況しているように対象物を速写する中で、とことん写生し続ける。
 爽波の目は、1句目のような梅雨の傘の光景を詠み、また、2句目のような夕焼の本意のど真ん中へ突っ込んでゆくのであろう。
 
 『舗道の花』の後ろに杞陽の解説がある。
 「類型的な文芸意識などは存在しない世界、さふいふ世界は爽波君のやうな人でなければ又持つことが出来ない。」
 爽波の近くにいた杞陽の言葉はさすがで、見事に爽波俳句を裏付けてくれる。