第九百二十七夜 上野泰の「金魚」の句

 『虚子俳話』の目次の一番最初は、「俳句は季題の詩」である。この文章をそのまま転載させていただこう。
 
 従来の俳句に季題といふものがつきまとうてゐるのは、何かさうしなければならん理由があるのだらうか。あると思ふ。併し仮りにこれは偶然の事だと考へてもよろしい。
 仮りに偶然の事から季題は俳句より離れることが出来なくなつたとしても、それは俳句の特性として尊重すべき事実である。
 季題を俳句から排除しよう、若しくは季題を軽く見ようとする運動が一部にあるやうであるが、それも結構な事である。やがて新しい俳句型の詩が生まれるかも知れない。例へば川柳と号した俳人が川柳を創めた如く。けれどもそれが価値のある立派な詩となるかどうか。それを試みやうとする人には余程の忍耐と勇気を要する。
 私は俳句が季題の詩として今後も育てて行く事に安心と誇りを持つ。

 本棚から『虚子俳話』を手に取った。虚子が最晩年に朝日新聞社より依頼され、最初は「朝日俳壇」の選者としてであったが、暫くすると小文も書くようになった。『虚子俳話』は、昭和34年4月1日の夜に脳溢血を起こしたその日まで綴った書である。4月5日付けの小文「平明」が最後であった。

 私は、ブログ「千夜千句」をネットで、ほぼ毎日書きつづけて、そろそろ2年半になる。今宵はブログ「千夜千句」の第九百二十七夜であり、あと70日余りの10月の初め頃には千夜となる予定である。
 
 ブログには、知っておきたい俳句の歴史、俳人たちのことをほぼ書き終え、現在は、学んでおくべき重要な季題の作品の鑑賞をしている。
 
 どの歳時記にも、4、5千ほどの季題と例句が採り上げられている。ブログ「千夜千句」では、その中から、どうしても押さえておきたい季題、私の好きな季題を、毎日、気分次第でランダムに選び、俳句を添えて鑑賞している。

 今宵は、「金魚」の作品を見てみよう。

  末の子の今の悲しみ金魚の死  上野 泰 『泉』
 (すえのこの いまのかなしみ きんぎょのし) うえの・やすし

 上野泰と虚子の六女上野章子の末の子は、3番目の男の子の泉で、第3句集『泉』の題名ともなっている。その泉が大切に育ててきた金魚が、ある朝うごかなくなっていることに気づいた。死んでしまったのだ。子どもにとって初めての、大切なものの死だ。泉は金魚の死を悲しんで泣いた。そして金魚のお墓を作って埋めた。
 
 「末の子の今の悲しみ」が子ども心を上手く表現している。心が納得するまでたっぷり悲しむと、心はすっと次に向かうことができるのが子どもだからだ。
 「金魚」の小ささと赤い色とが、子が受けとめられる悲しみの分量として、ある健やかさを感じる分量であるといえようか。

  けふの父魔法使ひや金魚すくひ  白石渕路 『名句もかなわない子ども俳句170選』
 (きょうのちち まほうつかいや きんぎょすくい) しらいし・ふちじ

 金魚すくいは、技の勝負。ノンちゃんもお母さんもすぐに紙が破けてしまいますが、おばあちゃんは紙を上手につかって1匹すくいました。
 うれしくなったおばあちゃんは、夢中になって子どもみたい。
 今日のお父さんは、金魚を叱ったりせずに、そうっとすくっています。もう、5匹もすくいあげたなんて魔法使いです。