第九百二十八夜 脇祥一の「梅雨の森」の句

 出版社蝸牛社をやっていたころ、気象予報士であった平沼洋司著『気象歳時記』を出版したことがある。その中に、「梅雨と風土」の項目があるので、一部を紹介させていただこう。
 
 日本の気候の特徴である梅雨と夏の蒸し暑さを東洋と西洋の人間学的思想史で位置づけた哲学者がいる。名著「風土」を書いた和辻哲郎博士がその人だ。
 氏はユーラシア大陸には三つの大きな風土的類型があると体験を通して体系づけた。三つとはモンスーン型、砂漠型と牧場型である。
 砂漠型は生命が打ち砕かれた荒涼とした世界で生活には厳しい。人間的には闘争的である。
 牧場型は気候が温和で自然が人間の理性を輝かせるという。特に夏の乾燥が特徴である。
 これに対してモンスーン型は蒸し暑さと台風などの自然の猛威が人間を襲う世界である。このため人間は自然に対して対抗をあきらめ従順であるという。
 稲はこの過酷な自然の中で生育する。日本人が自然に対して畏敬の念をもつのも分かる。梅雨の雨もその一環にある。

 今宵は、「梅雨」の作品を見てみよう。

  梅雨の森祭壇のごとしづかなり  脇 祥一 『気象歳時記』平沼洋司
 (つゆのもり さいだんのごと しずかなり) わき・しょういち
 
 梅雨の森へは、人も入ってはゆかないし動物たちも栖にもぐりこんだきりで動くことはないのであろう。動物たちが動き回るのは餌を探すためであるから、雨の日はじっとしていて、せっせと溜めこんでいた木の実を食べて過ごしている。

 鳥たちの鳴き声もしない。獣たちの吼える声もない。雨の降る音だけが時折、木々の枝や葉を打つ音となっている。梅雨の森の雨音とは、森の「しづかさ」を知らせる音というよりは、その場を満たす、気分、雰囲気、空気感と言ってもいいのかもしれない。
 
 脇祥一さんは、その静けさを「祭壇のごと」と詠んだ。祭壇の前に座ったときは、神の御前に居ることと同じであるから、人は心を鎮めているのだ。しづかなのだ。しづかさの中こそが、神とともに在る事なのであろう。

  ありとあるものの梅雨降る音の中  長谷川素逝 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (ありとある もののつゆふる おとのなか) はせがわ・そせい

 「ありとある」「在りと有る」は古語で、「ある限りの」「すべての」のという意である。

 掲句は生きとし生けるものは、すべての人たちも、あらゆる鳥も虫も獣たちもみな、同じように、しとしと降っている音の中にいるのですよ、という鑑賞になろうか。

 長谷川素逝(はせがわ・そせい)はホトトギスの俳人で、砲兵少尉として日中戦争から第二次世界大戦までの戦争を対象とした俳句を積極的に詠んだ。
  馬ゆかず雪はおもてをたゝくなり
  脚切つたんだとあふむひて毛布へこめり
  みいくさは酷寒の野をおほひ征く
 
これらの句はホトトギスで巻頭になった作品である。怒りというものが気魄の籠もった淋しさへ昇華されていることが感じられる。