第九百三十夜 浦部熾の「トマト」の句

 近年のわが家で食べるトマトは、夫の畑で育てているトマトが稔ってくれる限り、スーパーで買うことはなくなった。この守谷市に住み、畑作りもようやく失敗作が少なくなってきているので、毎日の献立のサラダではすっかり当てにしている。
 生でなく、野菜炒めや卵とじも、さっと作りたい朝のメニューに登場する。
 
 「最近、トマトが美味しくなってきたようだけど・・苗のせい? 肥料のせい? それとも、もしかして私の料理の腕が上がったせい・・?」

 今宵は、「トマト」の作品を紹介してみよう。

  眠り足り朝のトマトの甘きこと  浦部 熾 『春陽』以後
 (ねむりたり あさのトマトの あまきこと) うらべ・おき

 浦部熾さんは、深見けん二主宰誌「花鳥来」の初めての吟行句会で出合った方で、笑顔が印象的であった。同い年だが、高校時代の恩師の句会に所属して以来という俳歴は60年以上である。
 
 掲句は、よく眠った朝、日曜日で母であり妻である熾さんも、いつもより遅く起きてゆっくり朝食の支度をする。この当時の熾さんは畑を借りて楽しんでいた日々。トマトも自家製のようだ。前日に収穫してきて冷蔵庫で冷やしておいた。
 
 お皿に山盛りの、よく冷えているトマトは、トマトの酸味と甘味の塩梅もよく、さぞかし美味しかったのであろう。この作品は、句会でも点を集め、俳誌「花鳥来」に載り、その後、大きな俳誌に採り上げられ、さらに、朝日新聞の「天声人語」の記事となった。熾さんの代表作であり、何よりも若々しさに満ち溢れた作品である。

 「トマト」の句というと、一番に思い出す作品である。
 
 熾俳句は大自然を、目、耳、舌、鼻、皮膚の五感に心を澄ませた作品が多い。一句を詠むに当たっての対象の摑み方が鋭く勢いがあるのに繊細である。平成7年に刊行の、句集『春陽』と、それ以後の作品より紹介よう。

  犬ふぐり幸せなんてここにある 句集『春陽』
  てつぺんのてつぺんまでの白辛夷  『春陽』以後
  冬の蠅暮しの匂ひ嗅ぎに来し  『春陽』以後
 

  虹立つやとりどり熟れしトマト園  石田波郷 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (にじたつや とりどりうれし トマトえん) いしだ・はきょう

 この作品の季語は、「虹」も含まれているが、主の季語は「トマト」であると思う。
 
 中七の「とりどり熟れし」から、花が咲き、順番に赤く色づき、熟れ始め、赤くなったトマトやまだ青々としたトマト・・、そのトマトの生育してゆく様が見えてくる。石田波郷が一時期住んでいた練馬区石神井公園は、私も娘時代に長いこと住んでいた町で、父と散歩して波郷の住んでいた家を探したものであった。探し当てたのは、家ではなくて、一本の立札で、確か「石田波郷生家跡」と書かれていた。
 
 この練馬の地で波郷がトマトを植えていたら、と想像すると楽しくなる。石田波郷の俳句が好きだった父のことも、思い出すから・・。

  白昼のむらくも四方に蕃茄熟る  飯田蛇笏 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (はくちゅうの くらくもよもに ばんかうる) いいだ・だこつ
  
 この作品を紹介しようと思う一因は、漢字の「蕃茄」。歳時記の「トマト」を開くと「蕃茄」の文字もある。普通の文章で見かけても読めないかもしれないが、この作品を紹介したことで、「蕃茄」を覚えることができた。読みは「トマト」または「ばんか」と読んでもよいとされている。
 蛇笏は、「ばんか」と読んでほしいのではないだろうか。
 
 「蕃茄」はトマトのことである。原産地は南米アンデス山脈。明治時代に中国から入ってきた野菜なので「ばんか」とも読む。夏の6月頃に黄色い花が咲き、青い実がつき、大きくなり、赤く色づきはじめる。
 
 「むらくも」とは、真昼の高積雲の塊が群れをなしている雲のこと。そのような、四方にむらくもがかかった空の下に、トマトが赤く熟れていますよ、という景であろう。