第九百三十一夜 中村草田男の「玉虫」の句

 私が6歳の頃、この杉並区に家を建てて葛飾区から越してきた。玄関の向こう側は、ひこばえ幼稚園の門であったが、一月もせずに小学生になるので、ひこばえ幼稚園にはついに通うことはなかった。園内にある沢山の栗の木に実が落ちる頃の「栗拾いの会」やクリスマスなど催しがある日には、園長先生から「観にいらっしゃい!」という招待状が届いた。
 おかげで、桃井第五小学校へ入学した時には、近くに住む友だちもいたのであった。人見知りの激しい性格だったので、ひこばえ幼稚園の友はうれしかった。

 まだクーラーも冷蔵庫もなかった。夏の夜は、蚊取り線香を焚いて窓を開け放っていた。お隣の広大な雑木林の中に住んでいたのは、松村謙三という自民党の大物議員で、中国と国交を結んだ立役者であった。よく、大勢の議員さんの黒塗りの車で長蛇の列がわが家の前にも連なっていたことを思い出す。

 当時の夏の夜は、窓から飛んでくる虫たちの中に「玉虫」もいた。祖母が玉虫をつかんで、美しい羽のことを話してくれた。

 今宵は、「玉虫」を紹介してみよう。

  玉虫交る土塊どちは愚かさよ  中村草田男 『火の島』昭和14年
 (たまむしさかる つちくれどちは おろかさよ) なかむら・くさたお

 以前求めた『草田男俳句365日』の8月1日は、玉虫の作品が8句並んでいた。師の高浜虚子がまさに「客観写生」「花鳥諷詠」を説いていた頃の弟子であった。もっとも、草田男はこの教えに忠実であったばかりではなく、自身の考えに向かっていこうとした時代でもあった。
 昭和14年、草田男は次の句を詠んでいる。
 
  金魚手向けん肉屋の鈎に彼奴を吊り
 (きんぎょたむけん にくやのかぎに きゃつをつり)
 
 本当に憎む相手がいてこうした俳句を詠んだわけではなく、きっと自分自身に苛ついていた時期であったのだ。虚子は、
 
 草田男の考えは、俳句の文芸の、「芸」を指向していたように思う。
 だが、虚子は草田男には草田男の道がある。
 
 昭和14年に詠んだ、玉虫8句を紹介しよう。
 
 1・玉虫の熱砂掻きつゝ交るなり
 2・玉虫交る触覚軽打しあひながら
 3・玉虫交る五色の雄と金の雌
 4・玉虫交る青橙々は青光り
 5・玉虫交る土塊どちは愚かさよ
 6・玉虫交る煌たる時歩をきりぎりす
  (たまむしさかる こうたるじほを きりぎりす)※「時歩」は「じほ」の読みでいいのであろうか?
 7・玉虫交り廃屋藁と昼の闇
 8・玉虫の交り了りて袂別つ
  (たまむしの さかりおわりて たもとわかつ)

 掲句は次のような鑑賞になろうか。
 
 1句目、2匹の玉虫は熱砂を掻き混ぜながら交っています。
 2句目、玉虫は互いの触覚を軽く打ち合いながら交っています。
 3句目、玉虫の雄は五色にかがやき、玉虫の雌は金色をしていますよ。
 4句目、青色と橙色の玉虫が交っているが、雄の青の玉虫が光り輝いていましたよ。
 5句目、玉虫たちの交る性の饗宴に参加できずにいる土塊たちの何と愚かなことであろうか。
 6句目、玉虫たちの交りの最も輝くとき、キリギリスが歩いて通りすぎました。
 7句目、玉虫たちが交っていたのは廃屋の藁の中の闇でしたよ。
 8句目、玉虫たちの性の饗宴が了るや、2匹の玉虫はさっと別れてゆきましたよ。

 2匹の玉虫たちに、どれくらいの時が過ぎたのであろうか。