第九百三十二夜 石田波郷の「栗の花」の句

 昨日の続きになるが、ひこばえ幼稚園の庭を囲むように植えられた栗の木は、花の時期であっても「イヤな匂い」がすると感じたことはなかった。その頃の私は小学校の低学年であったから、大人になって知った匂いだったのだ、ということに気づいたのはずっと後のことであった。
 
 栗の花は、面白い形だ。小さい頃は、落ちている栗の花を拾っては、友の顔に近づけて「ほらー!・・ケムシよ!」と脅かしたことがあったっけ・・。
 花も葉もなんでもおもちゃになるし、遊ぶ道具になる・・。ケムシに見えるのは、葉腋から伸びてくる黃白色の雄花穂で、雌花は雄花穂の下部についている。まさにケムシに見える!
 
 今宵は、「栗の花」の作品をみてみよう。

  栗咲く香血を喀く前もその後も  石田波郷 『秀句350選 香』渡辺恭子編
 (くりさくか ちをはくまえも そのあとも) いしだ・はきょう

 栗の香の咲く梅雨どきは、結核患者には一番嫌な地獄を思わす。この日も容態が思わしくない。病巣から流れる栗の花の独特の青臭い匂いが、血を喀く前の胸の突き上る不快感に拍車をかける。苦しい喀血がやっと止まった疲労の激しい身心に、またもや栗の花が容赦なく匂ってくる。「喀く前もその後も」のピンと張ったリズム感の冴えが、生の深淵をのぞかせ、栗の花の重い香が、息苦しさの背景としてよく働いている。
 
 私の母は、終戦直後に父とともに東京に住むようになった。父は新聞記者の仕事に戻ったということだが、母も税理士助手として働きはじめた。娘であった私の面倒と家事は祖母が一手に引き受けていた。私は小学4年生。結核は伝染る病気なので、長いことお見舞いにも行けなかったが、退院直前に、父は病院に連れていってくれた。
 
 病室に入るや、母が私を見た途端いきなり泣き出した。本当は逢いたくてたまらなかった母なのに、一年も会えずにいた私は、素直になれなかっのだろう。しかも母の方が先に泣いてしまった。
 「もう帰ろう・・!」と、私は父の手をひっぱった。
 その夜からずっと、母が退院してからもずっと、私は祖母の布団にもぐりこんで寝るようになった。
 
 母が退院した初夏の栗の花の咲く頃になると、母に素直になれなかった自分の心が栗の花の独特な匂いとともに蘇ってくる。

  ゴルゴダの曇りの如し栗の花  平畑静塔
 (ゴルゴダの くもりのごとし くりのはな) ひらはた・せいとう

 子どもの頃に住んでいたわが家の向かい側は、たくさんの栗の木に囲まれたひこばえ幼稚園である。日曜日にはプロテスタントの井草教会であった。
 ここの日曜学校に通っていた頃の私たちを指導してくれたのは、当時まだ東大生であった小塩節(おしお・たかし)先生である。井草教会に通っていたからというわけではないが、私は、同じプロテスタントの青山学院高等部に入学することになった。
 
 「ゴルゴダの丘」とは、新約聖書においてイエス・キリストが十字架に磔にされたと記されているエルサレムの丘のことである。
 青山学院高等部では、聖書の時間が週一回と、毎日、一時間目の授業の後に、全校生徒が講堂に集ってのチャペルの時間があった。聖書を読み、30分の聖書の講義があった。新約聖書と旧約聖書を揃えていたので、ゴルゴダの地名を忘れずにいた。

 掲句はこうであろう。イエス・キリストが処刑されたという悲しみの地でもあることから、おそらくこの地を訪ねた平畑静塔は、ゴルゴダの地を「曇りの如し」と詠んだのではないだろうか。
 
 平畑静塔(ひらはた・せいとう)は、精神科医でありカトリック信者であり、戦後俳壇の大勢力となった山口誓子の「天狼」の俳人である。

 ※本日、小塩節先生のことに触れたことから、お元気かしらとネットで調べてみた。ところが画面は、笑みを湛えた先生の懐かしいお顔と、訃報であった。
 「ドイツ文学者の小塩節さんが、今月12日敗血症のため東京都内の病院で亡くなりました。91歳でした。」