第九百三十三夜 小3 前田しんじ君の「にじのはし」の句

  虹の懸け橋
  
 虹は太陽を背にして、自分の面前で雨が降っている時に現れる。その虹の真下に行ってみたいと、子どもの頃、駆け出した経験のある人も多いのではなかろうか。しかし、虹は自分と太陽と雨の降っている所の関係から見えるのであるから、その下には行けない。
 虹が懸け橋になるのは雨粒にあたって戻ってくる光が自分の目に入る部分で円になるためで、園の中心は背中の太陽と自分の目を延ばした先で、それは地平線の下になるためである。虹の橋の脚の部分だけのものは「株虹」という。虹の字になぜ「虫」偏がついているのか。古代中国では虫はヘビの形からの象形文字で、これに工(つらぬく)がついて天空をいく大蛇にみたてた呼び名のようである。
 日本各地の虹の方言に「ヌージ」とか「ノギ」というのがある。これは「ナ^ガ」、「ナギ」などヘビをあらわす呼び名の変形とみられ虹が天の蛇とみられていたことが推察される。(平沼洋司著『気象歳時記』蝸牛社刊より)

 今宵は、「虹」の句をみてみよう。

  にじのはしわたれば学校近くなる  小3 前田しんじ あらきみほ編著『小学生の俳句歳時記』
 (にじのはし わたればがっこう ちかくなる) まえだ・しんじ

 近道をすることも近道をさがすことも大好きなしんじ君は、いつものように空を見上げると、今朝は、大きな虹の橋が空にかかっているのを見つけたのだ。
 そうだ、あの橋を渡っていけたらいいなあ、学校まであっという間に行けそうだ。近道かもしれないなあ、そうだったら楽ちんなのになあ・・どうしたらもっと楽ちんができだろう・・しんじ君は考えた
 。
 子どもの発想は、どうしたら楽ちんができるだろうかを、いちばんに考える。が、じつは楽ちんの発想は、大人になってからも生きてゆくための大事な要素なのである。

  虹の足とは不確かに美しき  後藤比奈夫
 (にじのあしとは ふたしかに うつくしき) ごとう・ひなお

 東京からの帰り道、ハイウェイを降りて、国道6号線を取手市へ向かって走っていた夕方であった。雨が止みかかっていて、方向としては沈む夕陽を背に西から東のわが家へ向かっていた時である。

 目の前に現れたのは、今まで見たことのない大きな虹である! 大きな虹は国道6号線を跨ぎ、虹の片足は右、虹のもう一つの足は左側にドーンと立っているではないか! 心なしか、国道6号線の車の流れはゆっくりしはじめた。どの運転手も、ぶつからないように気をつけながら、天からの贈り物の虹を見逃すまいとしていた。
 
 掲句の「虹の足とは不確か」に惹かれるように、あの日の虹の足の先を思い出そうとした。先程、「ドーンと立っている」と言ったが、それは不正確で、国道の両側にある田んぼに、虹は触れているようで触れていないような、田んぼから虹の足が生えて来たようでそうではないような、虹の姿であった。
 後藤比奈夫の作品に触れて、当時を思い返せば虹の姿は、確かにそうであった。
 
 虹の足は、確かに「不確かに」であり、しかも「美しき」姿の虹であった。