第八十五夜 深見けん二の「雪」の句

  雪いつか降り今を降り街燈る  『雪の花』
  
 吟行先で詠もうとする季題に出会った時のけん二先生の集中力は凄いもので、それは言葉が浮かんでくるのを待っている時間であると言われるが、側に近づくことも憚るほどである。
 客観描写の技を磨くことで、ある一面をしっかり捉えた作品を詠むことができるようになるだろう。しかし、普通の言葉での時系列の描写であるように見えながら、掲句のように時間の流れを言い止めている作品は、繙いてゆくと、その奥にもう一つ大事なものが横たわっていると、私は今、そう考えている。

 掲句を鑑賞してみよう。
 
 句意はこうであろうか。サラリーマンであった作者は、仕事中に窓から外を眺めると雪が降り出していることを知った。夕方、会社を出ると街には今もまだ雪が降りつづいている。大雪ではなさそうだ。冬の日暮れは早いから街の灯がともっていた、という情景であろう。
 だが、うっすらと雪に覆われた都会は、日常とはがらりと異なる街の雰囲気である。街灯に映し出された真っ白な世界は美しく、大人の心も浮き立つほどで、クリスマスの夜のように人恋しくなる。この日は子と妻のいる我が家へと急いだかもしれない。

 〈虹立ちしことはさいぜん月かゝり〉や〈地に届く時のためらひ木の葉降る〉の句にも同じような、時間の流れの中で微妙に変化してゆく動きがある。その変化が〈さいぜん〉であり〈ためらひ〉であった。季題との緊張感と集中の中で生まれるように授かった言葉が、一句の中に収まったとき、〈間のある調べ(リズム)〉となる。
 こうした作品がけん二俳句の特長のように思う。鑑賞も解釈もむつかしいが、ある瞬間「わかった!」と気づくと、同じ時間の流れを共有した心持ちとなる。
 
 けん二先生は自身の創作の「調べ(リズム)」について『深見けん二俳句集成』の中で次のように語っている。

「私の場合には虚子の句や青邨の句、他にも有名な句を覚えていますから、句のリズムというのが、体にしみ付いているわけです。それがただ動き出すわけで、どう動いてくれるかは分からない。言葉がうまく組み合ってくれればいいんです。」

 『折にふれて』は俳誌「花鳥来」に毎号、自身に言い聞かせるつもりで書いたものを纏めた書。その中の「諷詠(調べ)」には、次のように書かれている。

「芭蕉の言う、句ととのはずんば舌頭に千転せよ、ということもこのことです。(略)新しい表現、面白い表現に出会って刺激を受けることは大事なことであり、必要なことですが、それが自分の俳句で成功することはなかなかありません。
 そうした新しい表現を含めて言葉というものを、できるだけ多く、平素から心の中に準備しておいて、それが作句の時に、また推敲の時に、自分の心を通して、自分の言葉として、一瞬に句の中にとけこむようにすることが多読、多作なのです。
 こうした積み重ねによって、そのものとしての本来の意味、歴史を持っている言葉は、はじめて自分のものとなり、調べが整い、そこに個性が出、制作の喜びが湧くのです。」
 
 今回は、けん二先生の教えを学び直すつもりで、師の言葉を書き写させていただいた。