第九百三十六夜 山口青邨の「中尊寺」の句

 一昨日の7月22日に、中尊寺へ日帰りのドライブ旅行をした。早朝の4時半に佐藤尚くんが来てくれて、佐藤くん一人で全行程を運転してくれた中尊寺行きとなった。

 「雨天」という天気予報通りのハイウェイは混雑もなかったが、中尊寺までは6時間ほどで到着した。中尊寺境内の土産店から、円乗院住職の佐々木邦世さんのご自宅へお電話をした。少し境内を散歩していると、邦世さんと奥様がご一緒にいらしてくださった。
 25年前に中尊寺ハスの初開花のお知らせをくださり、ハスの咲くまでをご一緒した後に、円乗院のご自宅の二階で、朝粥をご馳走してくださったのが奥様である。
 しばらく懐かしい昔話をした私たち一行は、邦世さんのご案内で、宝物館の讃衞蔵へ入った。丁寧な説明のお陰で、4度目の中尊寺であったが、中尊寺の歴史も、藤原三代の棺のうちの、秀衡の棺の中に置かれた泰衡の首桶に、副葬品の1つとして入っていた蓮の実が、八百年の眠りから覚めて花を付けたものであることを、再確認することができた。眠りから覚めて・・とは、ハスの実は腐らないということだそうである。
 
 佐々木 邦世(ささき ほうせい、1942年 – )さんは、天台宗僧侶、中尊寺円乗院住職。 岩手県生まれ。1972年大正大学文学研究科仏教学博士課程満期退学され、現在は中尊寺仏教文化研究所長。大正大学講師。平泉文化会議所副理事長。

 今宵は、山口青邨と松尾芭蕉の中尊寺で詠んだ作品、中尊寺を詠んだ作品をを紹介してみようと思う。

  光堂かの森にあり銀夕立  山口青邨 『乾燥花』昭和30年作
 (ひかりどう かのもりにあり ぎんゆだち) やまぐち・せいそん

 この作品は、昭和30年に青邨が盛岡へ帰る途中、平泉の毛越寺から中尊寺へ抜ける車中での作であり、激しく降る雨脚は「銀色の矢のようであった」と自解している。
 遠くにうち煙る森はあの金色堂のある中尊寺である。「金色」という言葉を句に潜ませてはいることで、「光堂」は、あの藤原三代の棺の祀られた金色堂の別称であることに誰もが思い至る。
 
 昭和25年の4月末からのゴールデンウィーク、中尊寺が「藤原祭り」の行事の一つ芭蕉祭の全国俳句大会を開催したとき、青邨は講師として招かれていた。この時ちょうど金色堂鞘堂の屋根の修理の最中であった。案内した円乗院の先代住職から屋根に上ってもいいですよと言われた青邨は、懐中電灯を持って鞘堂と金色堂の間の隙間へ這い上がり、金色堂の屋根に金箔をおす木瓦に直接触れたのであった。
 屋根は、金箔は剥げ漆も剥げて、布があらわれてをり、わずかに木瓦の隆起した部分の陰に金が残って底光りに光っていた。青邨はあまりの懐かしさに、思わず屋根の表を撫でたという。

 鞘堂は静かな佇まいであるが、鞘堂に納められた金色堂は黄金華やかな藤原時代とその滅亡を彷彿とさせてくれる。青邨は、かつて金色堂鞘堂の修理中の屋根に上らせてもらって、金箔を見せてもらったことがあった。このことが下敷きとなり、青邨が「金色堂」ヘ一方ならぬ思いを募らせていたことを踏まえた作品が掲句であった。
 
 今宵は、季語ではなく、「中尊寺」の作品を紹介してみよう。

  人も旅人我も旅人春惜しむ  山口青邨 『雪國』昭和11年
 (ひともたびびと われもたびびと はるおしく) やまぐち・せいそん

 今回の中尊寺行では、松尾芭蕉の句碑にも出会い、中尊寺境内から坂道を下って中尊寺能舞台の方へ向かう途中に、山口青邨のこの作品の句碑にも出会った。
 
 自註には、「里に叔母の病気を見舞った帰途平泉に下車、中尊寺を訪ねた。山桜が散る金色堂のほとりに立って瞑想。ここには西行も来た、芭蕉も来た。」とある。

  五月雨の降り残してや光堂  松尾芭蕉 『奥の細道』
 (さみだれの ふりのこしてや ひかりどう) まつお・ばしょう

 金色堂脇には松尾芭蕉の有名な、この作品の句碑が建てられている。今回の旅で見ることができた。光堂は現在、「中尊寺金色堂覆堂」の建物の中にあって保護されている。
 見学者は、中尊寺金色堂覆堂に入っている金色堂を見学することになる。このようにして護ってきた室町時代中期建立の貴重な金色堂は、日本の重要な史跡として未来永劫保護してゆかねばならない。
 
 「五月雨」は、梅雨と同じことで、陰暦五月の長雨のことで、現在では六月に当たる。
 掲句は、何もかも朽ちさせてしまう蒸し暑さの長雨も、この光堂だけは降らなかったのであろうか。ぴかぴかのまま黄金色に輝いていますよ、という句意になろうか。