第九百四十二夜 富安風生の「蟻地獄」の句

 ブログ「千夜千句」は、千夜かけて、昔のこと、これまで生きてきた、出逢ってきた人たち、出合ってきた様々の出来事を、思い出してゆく旅のようなものであると言えようか。。
 
 今日は第九百四十二夜。千夜までは、もう六十夜足らずとなった。毎日の小さなテーマでも、何を書こうか決まらない日もある。
 ありがたいことに俳人の端っくれではあるけれども、私の俳句力では、17文字では、私の全てを伝え切ることはできそうにないこともよく知っている。
 
 だが季節は日々進んでゆき、俳句には季節を表す季語というものがある。暑い日には「風死す」のような季語に触発されることによって、「千夜千句」の文章を、辛うじて書き進むことができているように思う。
 
 もう40年ほど昔であった。東中野に中学時代からの友人が住んでいて、年に2度ほど、近くのお洒落なケーキ屋さんで女同士のおしゃべりをしていた。周囲には小高い空地があり、当時は林であったが現在は立派な公園になっているようである。
 
 ある年、この空地で大きな「蟻地獄」を見つけた。蟻地獄を取り囲んだ当時の顔ぶれを思い出してみた。私も所属していた深見けん二先生主宰の「花鳥来」の吟行句会の場所として、編集委員の一人であった私が、この東中野の林を推薦したのであった。
 だれもが、この大きな蟻地獄の周りで座り込んで、句を思案していた。
 
 今宵は、「蟻地獄」の作品を見てみよう。

  蟻地獄寂寞として飢ゑにけり  冨安風生
 (ありじごく せきばくとして うえにけり) とみやす・ふうせい

 「蟻地獄」とは、体長約1センチほどのウスバカゲロウ類の幼虫。鎌 (かま) 状の大あごをもち、乾燥した土をすり鉢状に掘って巣を作り、底にひそんで落ちたアリなどを捕らえて餌にする。あとじさり、すりばちむしとも呼ばれる。
 「寂寞」とは、ひっそりとしてさびしいこと。

 句意はこのようになろうか。蟻地獄をずっと眺めていると、通りがかった蟻などが、擂鉢状の穴にうっかり滑り落ちることがある。中へ落ちてしまったら、穴の下に待ち構えているウスバカゲロウの幼虫がやってきて、蟻は、ウスバカゲロウの鎌状の顎で食いちぎられてしまうのだ。
 そう思うと、蟻地獄というのは、見たところひっそりとした穴であるが、じつは、一旦落ちるとウスバカゲロウの幼虫に食べられてしまうという。
 蟻地獄というウスバカゲロウの幼虫は、常に飢えている生き物なのである。

  鳥葬といふ暗がりに蟻地獄  角川春樹
 (ちょうそうという くらがりに ありじごく) かどかわ・はるき

 「鳥葬」とは、遺体をハゲワシに食べさせるチベットの伝統的な葬儀方法である。チベットの鳥葬の様子をテレビで観たことがあるが、一族の者が死ぬと、死者を草原に担いでゆき、皆で祈りを捧げたあと、遺体を野山や岩の上などに寝かせる。
 鳥たちの嗅覚は鋭く、死者が担がれてくるのをいち早く察知し、担いできた人たちが去るや否や、遺体を食べてしまうという。ハゲワシに遺体の葬送を委ねることが「鳥葬」である。
 これが、チベットやモンゴルでの葬儀のしきたりである。

 『現代俳句歳時記』角川春樹編より、2句の鑑賞をさせていただいた。