第九百四十五夜 山口梅太郎の「五月」の句

 7月の中頃、山口梅太郎さんから、俳人協会刊行の自註現代俳句シリーズ・13期 13の『山口梅太郎集』を謹呈いただいた。
 最初にお会いしたのは、平成4年、大泉学園の駅の近くの公民館で行われていた「屋根」主宰の斎藤夏風先生の句会であった。当時は私も「屋根」に所属していた。
 
 梅太郎さんの略歴を拝見すると、俳句を始めたのは、60歳になられてからである。「あんまり真似するな」と、父青邨は息子の梅太郎さんが俳句を作ることを肯じなかったという。

 その後、私の仕事が忙しくなり、「屋根」の石神井句会に出席することはなくなった。句会の出席はカルチャーセンター時代からお世話になっていた深見けん二先生の「花鳥来」一つになっていた。
 その私が、俳人協会刊行の自註現代俳句シリーズ『山口梅太郎集』を拝見し、青邨先生に想いを馳せることができたことは大きな喜びであった。

 今宵は、『山口梅太郎集』の作品を紹介してみよう。


  安曇野の五月青邨晴れの日に  平成15年作
 (あずみののごがつ せいそんばれのひに)

 「青邨晴れ」を詠み込んだ句は、「花鳥来」の12月の例会の折には、必ずのように投句されていた。青邨先生の忌日が12月15日であり、12月の2度目の例会が15日近辺が多かったからでもある。「花鳥来」主宰の深見けん二先生は勿論のこと、夏草門下だった先輩が何人もいらした。
 
 掲句は、夏草の俳人であり重鎮の一人であった鳥羽とほる氏が亡くなられた折の追悼句である。梅太郎さんも、鳥羽とほる氏の地元松本で行われた告別式に出席した。
 この日は、「晴れ男で、とほる先生が師と仰いだ山口青邨の名を付した「青邨晴れ」と言える快晴だった。」と、自註されていた。
 晴れ男は、梅太郎さんにとっての大先輩の鳥羽とほる先生である。季語は「五月」で夏である。

 「鳥羽とほる(とば・とおる)」は、松本市出身の医師で、大町病院の院長だった人。句誌「草の実」を主宰者としてこの地方の俳句愛好者の先達となった人である。


  夏炉焚く夏下冬上といふことも  平成15年
 (なつろたく かかとうじょうと いうことも)

 炉を焚くとき、夏炉では火種を炭の下に入れ、冬は炭の上に置くのがよいというきまりが「夏下冬上」である。
 梅太郎さんはこの日、炉を囲み鮎を焼いて食べた。店の人は、火種を炭の下にして火を熾していた。
 火が熾きて鮎が焼き上がるのを待ちながら、「夏下冬上」という話が出たのであろう。焼き上がった串にさした鮎を手に、「夏下冬上」とはこういうことか、理に適っているなあ、などと話しながら食べたのであろう。
 
 さすが、父は山口青邨で東大工科採鉱学科卒であり、梅太郎さんも東大卒であり、現在は、東大名誉教授で専門は資源開発工学であるという。


  ちちろ鳴くしじまもありぬ薪能  平成29年
 (ちちろなく しじまもありぬ たきぎのう)

 掲句は、明治神宮に奉納された薪能で、10月のことであったという。
 私がかつて観たのは平成9年の4月上旬の夜桜能であった。一週間だったと思うが、7日間つづけて毎夜の連れは違っていたけれど、観つづけた。俳句を始めたばかり、高浜虚子の最晩年の弟子の深見けん二先生が師であった。能楽に堪能であった高浜虚子の〈咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり〉の句に、能のシテの舞を重ねていた。
 
 俳句で贅沢をしたのは、明治神宮の夜桜能、中尊寺の薪能、浜松の羽衣の松での夜桜能を追いかけたことくらいかもしれない。京都まで追いかけることは叶わなかった。
 
 「ちちろ」は蟋蟀のこと。お能は、シテのすり足と足拍子の音だけという静かな舞である。囃子方は笛方と小鼓方、大鼓方と太鼓方よりなる。
 だが、能舞台は静かさが基調であるので、梅太郎さんのご覧になった野外での薪能では、おそらく「ちちろ鳴くしじまもありぬ」であったのではなかろうか。神宮の森影は暗かったが、月も昇ったという。