第九百四十六夜 西東三鬼の「広島」の句

 今日は広島忌。1945年8月6日を『広島原爆忌』『広島原爆の日』と言い、1945年8月6日にアメリカ軍による広島市への原子爆弾投下に由来する。私も1945年の生まれなので、同じ77回目である。

 平和記念式典は、慰霊碑が平和記念公園に建立された昭和27年以来、途切れることなく続けてきており、昨年に引き続き、令和3年も新型コロナウイルス感染拡大防止策を十分に行った上で、午前8時開式、同8時50分閉式が予定通りに行われた。

 今宵は、「広島原爆忌」の作品をみてゆこう。
 

   ノー・モア・ヒロシマズ   西東三鬼 『三鬼百句』
   
 1・広島に月も星もなし地の硬さ
 2・広島の夜陰死にたる松立てり
 3・広島や卵食ふ時口ひらく
 4・広島を黒馬通り闇うごく
 5・広島や林檎見しより息安し

 西東三鬼(さいとう・さんき)は、1900年岡山県の生まれ。高浜虚子の「ホトトギス」を離脱した水原秋桜子の新興俳句運動では連作形式を多用した作品が主流となった。連作では季語の重複となりやすく、同一季語では単調になりやすい。そこで生まれたのが「キーワード」であった。
 
 上記の連作「ノー・モア・ヒロシマズ」では、いわゆる季語というものは入っていない。三鬼は「広島」をキーワードとした。季語は入っていないけれど、「広島」の地名には独特な景がある。戦争を終わらせるに当たって、アメリカは当時発明されたばかりの原子爆弾を初めて投下した人の住む街であった。
 三鬼は、「広島忌」という言い方はしなかったが、「広島」から伝わってくるものは原子爆弾を落とされた街に他ならない。私たち読み手には、地名「広島」だけでも充分に、広島に住む人たちの心の痛みが、確実に沁み入ってくる。この作品の季語と考えてもよいのではないだろうか。
 
 他にキーワードとして新興俳句運動の中で詠まれていたのが、「ラグビー」や「タイピスト」などであった。

  広島や卵食ふ時口ひらく  西東三鬼
 (ひろしまや たまごくうとき くちひらく) さいとう・さんき

 「広島」をキーワードとした作品の中から感じるのは、「卵食ふ時口ひらく」という、どこかしら優しさの仕草のためではないだろうか。
 川名大『現代俳句上』に、西東三鬼が登場している。本著は、川名大氏の俳句作品の読込みが鋭い。私など読む度に、うーむ、と気づかされ教えていただくばかりである。
 三鬼自身の自註が書かれていたので、紹介させていただく。
 「未だに嗚咽する夜の街。旅人の口は固く結ばれてゐた。うでてつるつるした卵を食う時だけ、その大きさだけの口を開けた。」とあり、原爆投下の惨状を目の当たりにした時の三鬼自身の精神的衝撃を、「卵食ふ時はひらく」という虚脱した行為の即物的な表現によって表したものになっている。(略)」と。
 

  持ち古りし被爆者手帳原爆忌  竹下陶子 『ホトトギス新歳時記』
 (もちふりし ひばくしゃてちょう げんばくき) たけした・とうこ
  
 本日8月6日は、朝からテレビの前で、90歳を超えている原子爆弾投下から77年目を迎えた当時の被爆者の話や、子や孫たちが家族から継いできた話を聞くことができた。皆の思いの「ネバーギブアップ!」は、どのような事に遭遇しても「諦めない!」という精神が受け継がれつづける限り、地球は大丈夫・・だと思った。

 私は、結婚した夫の故郷に4年間住んでいた。私の勤務した活水女学院高校は、校舎の窓から川向うに松山公園が見える。そこには、昭和30年に造られた彫刻家北村西望(きたむら・せいぼう)の代表作の巨大像「長崎平和祈念像」がある。
 
 被爆者手帳は、勤務していた活水女学院高校の大先輩から見せていただいたことがあった。終戦の年に生まれた私なので、見せていただいた時には、大先輩が23年間「持ち古りし被爆者手帳」であったことになる。


  原爆忌子がかげろふに消えゆけり  石原八束 『現代俳句歳時記』
 (げんばくき こがかげろうに きえゆけり) いしはら・やつか

 この作品の「かげろふ」は「陽炎」。日光が照りつけた地面から立ちのぼる気である。
 句意はこうであろう。真夏の陽炎は地面から立ちのぼる気も強い。原爆忌の頃であれば尚更のこと強い気の陽炎が立ちのぼっている。幼い子が、お母さんの手を振りきって逃げ回っている。追いかけるけれど、素早い子の動きにはかなわない。お母さんは両手に買物籠をさげている。
 
 あっという間に子は、かげろうの中に消えたように思った。今日は原爆忌である。あの日、眼前に見た原爆・・逃げまどう大人も子どもたちも・・そして石原八束さんご自身も逃げまどった一人であったのかもしれない。
 
 「原爆忌」とは、一発の原爆が投下された瞬間から、地上では凄まじい混乱がはじまることを意味する季語である。