第九百四十三 井上哲王の「小判草」の句

 私の父は、雑草の花が好きで、同じ雑草が好きな仲間と秩父へよく行っては帰りにビニール袋いっぱい何種類もの雑草を根ごと抜いてきては庭に植えて楽しんでいた。雑草好きの仲間とは、私の小学校の同級生の辻野五郎丸くんのお父さんである。どこで仲良くなったのか訊くと、高田馬場の飲み屋で出合ったのだという。飲みながら話の中で、五郎丸くんと私が八成小学校の同級生であることを知ったのは全くの偶然であったという。
 
 庭に植えていた小判草は、五郎丸くんのお父さんからいただいたのか、野原で見つけたのか、あるいは花屋で見つけたものなのか、徐々に増えていった。風が吹くと、垂れて穂をつけた小判草は、よく揺れて、穂を打ち鳴らしていた。本物の小判の音だといいのだが・・と、父は母にちょっと済まなさそうな視線を送った。
 株式新聞社の記者だった父は、時には自分も株の売買を楽しんでいた。父が母に済まなそうな表情を見せるのは、大きく儲けることもあったが、大きく負けることもあって、母に申し訳ないという気持ちがあったからであろう。

 今宵は、「小判草」の作品を見てみよう。


  貧しげな草にして名は小判草  井上哲王 『ホトトギス新歳時記』
 (まずしげな くさにして なはこばんそう) いのうえ・てつお

 小判草は、ヨーロッパ原産のイネ科の一年草。葉の長さは30~60センチほど。葉は麦に似た模様で、六月ごろ茎の先端にふわふわした緑色の穂を垂らし、熟すると黃褐色に変わる。この穂が小判の形をしていることから、小判草の名がついた。
 
 このように緑一色で、しかも美しい花の形をしているわけでもない。「貧しげな草にして」であるのに「名は小判草」であると、まるで、殿様のように小判を自由にできそうな名を持っていると、井上哲夫さんは詠んだ。
 「貧しげ」と「小判草」とを、つきくらべたところにユーモアがある。


  小判草風来るたびに風笑ふ  池上樵人  『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (こばんそう かぜくるたびに かぜわらう) いけがみ・こうじん
 
 うっすらと暑さを感じるようになった初夏の野に、小判草が薄緑色の穂のような花を垂らしている。小判草の花は、風が来るたびに小判草は崩れるように花も茎も揺れるが、池上樵人さんはこの光景を、風に吹かれている小判草が笑っているとは見てはいなくて、小判草に触れながら吹く風の方が笑っていたのだ、と見て取った。
 
 風さんは、小判草に触れているようで触れていないような、くすぐったいような柔らかな風を、小判草に送っているのだろう。そんな風を、「風が笑っている」と小判草は揺れながら、小判草も風と一緒に笑ったにちがいない。