第九百五十夜 中村汀女の「木の実」の句

 蛇沼公園は、名前だけ聞くと「本当に蛇が出てくるのかしら?」と思うが、そうではなかった。雑木林が真ん中の芝生の広場をぐるり囲んでいる公園だ。歩いてゆくと、雑木林は小高くなっていて、下ってゆくと公園を囲むように沼面が見えてきた。くねっている沼面が蛇のようであるとして名づけられた「蛇沼」であった。蛇沼の降り口には、ひょうきんで愛らしい蛇の置物がある。
 
 春の桜の季節もステキだが、秋の紅葉、落ち葉、木の実など拾って家に帰ると、たちまち遊び道具になる。この頃には私の母も認知症が少し入ってきているが明るい認知症で、色とりどりの落ち葉や木の実を工夫して並べた仏壇の前には賑やかなお供え物ができた。
 母と自然の中を散策することは、有難いことに俳句を詠む私にとって、かけがいのない吟行になっていた。

 今宵は、「木の実」の作品を紹介しよう。


  袂より木の実かなしきときも出づ  中村汀女 『現代歳時記』
 (たもとより このみかなしき ときもいず) なかむら・ていじょ

 現代女性俳句の「四T」と呼ばれる先覚者は、中村汀女、星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女である。名をアルファベットにすれば、「汀女Teijyo」「立子Tatsuko」「多佳子Takako」「鷹女Takajo」と、それぞれ「T」に始まる。
 
 裕福な家庭に育ち、幸せな結婚生活をおくった中村汀女である。庭の散策が汀女の外気にふれて日光浴となる。
 掲句は、子ども時代であろうか子育ての頃であろうか。毎日のように時間を決めて歩いていると、秋には、自宅の庭の木々も木の実を落としている。これは不思議な習性だが、子も母も木の実を見れば必ずのように拾う。散歩で拾う木の実はまるで宝物を見つけた気持ちになる。子はポケットに詰め込み、母は着物の袂に入れてゆく。

 子と母の散歩は楽しい時である。そうすると、母にとって「かなしきとき」とは、どんな時であったのだろう。子が知る必要のない他家へ嫁いだ「嫁」の悲しみはあった筈である。子との散歩から暫くの時が過ぎた頃のこと、散歩で着た着物の袂から、木の実が出てきたのだ。普段着の着物は、衣紋かけに掛けたままだ。
 
 ある日のこと、着物の袂に手を入れると、あらっ! あの日の木の実が出てきたではないか! その日の嫁としてのかなしさは、木の実を見つけたことによってすうっと消えた。


  木の実落ち幽かに沼の笑ひけり  大串 章 『現代歳時記』
 (このみおち かすかにぬまの えまいけり) おおぐし・あきら

 茨城県龍ケ崎市の蛇沼公園で見たことがある光景である。沼の縁には葦が茂っているが、数か所、沼に降りて行けるようになった所がある。ある時は犬が飛び込んで泳いでいるのを見たし、ある時は雑木林の木の実が転がって落ちてゆくのを見た。
 
 木の実が落ちた時だった。さざ波が広がった。さざ波の小さな輪がゆっくり広がってゆく様は、「幽かに」ではあるが、大串章氏の捉えた「沼の笑ひけり」の一瞬の姿であった。木の実が転がり落ちてくれて、沼はうれしかったにちがいないから。
 
 大串章氏は、「百鳥」を創刊し主宰。俳人協会会長を務めた。蝸牛社からシリーズ『秀句三五〇選 8 風』の編著者としてお書きくださった。
 

  木の実独楽回して兄が欲しい夜  中1 下条真由美 『名句もかなわない子ども俳句170選』
 (きのみごま まわしてあにが ほしいよる) しもじょう・まゆみ

 クヌギ、カシ、シイ、トチノキなどの木の実は、秋になると落ちてくる。お母さんは、なぜか、木の実が木を離れてポトンと落ちる淋しい音がたまらなく好きだ。
 地面に落ちている木の実をいっぱいひろってきて、秋の宝箱へ入れたのはノンちゃん。木の実独楽は、お店で買ってくる独楽とは違う。拾った木の実に棒を刺して独楽にして回すものなので、弟のタロくんのお手製の木の実独楽はうまく回らない。「ああ、独楽を上手に作れるお兄ちゃんがいたらなあ!」と、タロくん。