第九百五十五夜 角川春樹の「秋扇」の句

 「千夜千句」も第九百五十五夜となった。「千夜」まで、あと一息というところまで来ているのだが、夏バテ状態となりパソコンに向かう時間は長く、パソコンに文字は埋まらない時間が流れ、悶々した時間だけが過ぎている。
 「千夜千句」を企画したのは、2年半前の2017年の年末であった。その年の10月末に家の前で転倒し、2ヶ月の入院を経てしばらくしてから始めた事が「千夜千句」であった。読書は好きだが、じっとしている時間などあり得ない私なので・・。
 
 わが家の黒ラブ2頭目のノエルも、このところの真昼の散歩の暑さはお気に召さないようで、時折、車のエンストが起きたごとく、テコでも動かないぞ、と、4本の脚がアスファルトに貼り付いたようになることがある。ノエルの強い意志を感じるが、折角の関東平野ど真ん中の丘陵地帯の散歩なので、飼主の私も、犬の我儘に負けない覚悟で夏の昼の散歩にも出かけてゆく。
 
 今宵は、「秋扇」の作品を紹介してみよう。


  秋扇海の中なる能舞台  角川春樹 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (あきおうぎ うみのなかなる のうぶたい) かどかわ・はるき

 安芸の宮島の能舞台である。もう50年前になるが、東京で出合った夫と結婚し、夫は、故郷の長崎県の高校教師をしていた。東京に里帰りしていた夏休みも終えて、車で長崎に戻る途中、この道を左折すれば、安芸の宮島という表示が出ていた。行きたかったが、東京からずっと私一人の運転で、大阪の友人宅で一泊、翌日は早朝に発ち、昼過ぎに通りがかったが、当時は、姫路を過ぎたあたりからはハイウェイではなかった。こつこつ走り通して、北九州の伯父の家に泊めてもらう夜に到着するのがやっとだ。
 
 残念だったが、ホンダのミニクーペ・・よく走る車ではあったが、寄り道は止めることにした。安芸の宮島の能舞台で能を観ることができたのは、その後、能が好きになった娘であった。
 
 「海の中なる能舞台」とは、海に浮かんでいるような能舞台で、舞台を観るのは、別に設えた観客席からであったという。秋扇とは、秋の舞台での、シテの右手に持った大ぶりの扇のことであろう。
 感激した娘は、一泊して、さらに広島ドーム見物もして戻ってきた。


  しづかなる男の怒り扇置く  西島麦南 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (しずかなる おとこのいかり おうぎおく) にしじま・ばくなん

 男が心底から怒っている時というのは、怒鳴り散らすという怒り方ではないように感じている。わが夫はかなりの怒りん坊、怒鳴れば相棒はおとなしく引き下がると思っているのかどうか・・よく怒鳴る。大したことで怒っていることは少ないので、大抵は先に鎮まるようにしている。
 心から怒らしてしまったら・・? そんな時が来るだろうか・・? どんな時であろうか?
 
 掲句の「しづかなる怒り」は、深くて恐ろしい! 男と女の場合ではなく、たとえば仕事関係、たとえば男と男の友情関係の亀裂などであろうか。
 下五の「扇置く」からは、正式な話し合いの場での互いの不一致の露呈の結果の仕草であろう。

 西島麦南本名九州男(くすお)。明治28年熊本生。武者小路実篤の「新しき村」に賛同、大正11年まで村の建設に従う。戦後は岩波書店勤務。俳句は飯田蛇笏に師事。「キラゝ」に投句、のち「雲母」同人。現代俳句協会会員。著書に『金剛纂』『人音』がある。昭和56年(1981)歿、86歳。