伊丹啓子さんから、2022年8月22日に発行された第3句集『あきる野』をご贈呈いただいた。啓子さんは、私どもが出版社蝸牛社を経営していた時代に、俳句・背景シリーズ㉑『愛坊主』の著者として参加くださった。
句集『あきる野』を拝見する前に、1999年7月1日発行日の『愛坊主』を制作した頃を、まず思い出そうと、書棚の『愛坊主(かなぼうず)』の「あとがき」を読み、作品を読みはじめた。愛坊主は息子さんがモデルであった。
微温プールは羊水 幼年期が浮かび
飼い兎とびだす 餅つき幼稚園
特徴は2つある。1つ目は、分かち書きによる作品であり、2つ目は17文字の「五七五」には拘っていない自由な文字数の作品であった。 お父上の伊丹三樹彦は俳人でありまた俳句と写真の相乗効果である「写俳」運動もしていた。蝸牛社の本の中に、各章の扉を、伊丹三樹彦の写真で飾らせていただいたこともあった。お母様の伊丹公子も俳人であった。
今は閉じてしまった出版社蝸牛社の社長は夫の荒木清であるが、この度の伊丹啓子さんの句集『あきる野』を手に取って、にっこりした。
さて、というのは高浜虚子の弟子の深見けん二主宰の「花鳥来」で客観写生を学んでいる私が・・伊丹啓子さんの作品の中にうまく入っていけるだろうか。
今宵は、『愛坊主』と『あきる野』から作品を紹介しよう。
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微温プールは羊水 幼年期が浮かび 『愛坊主』
(びおんプールはようすい ようねんきがうかび)
私にとって伊丹啓子俳句の手がかりである『愛坊主』の最初のページの一番目の作品には、このような自解であった。
「ふと、私の脳裏に屋内プールと羊水の近似性といった思いが蘇った。水温が一定の微温に保たれたここは、夏でも冬でもない半球空間だ。それは、今泳いでいるチビさんたちが数年前に棲んでいた母胎に似ているではないか。
そんなことをぼんやり考えていると、ピーッと練習終了の笛が鳴った。急いで、息子の着替えを手伝いに更衣室へ回らねばならない。」
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吸血鬼伝説である COVID19 『あきる野』
(きゅうけつき でんせつである コビッド・ナインティーン)
この作品は、『あきる野』の第33句目。「COVID19」は「新型コロナウィルス感染症」のことである。啓子さんは、凄まじい勢いで増え続けてきた新型コロナウィルス感染症を、かつての、ヨーロッパの吸血鬼伝説にも匹敵する恐ろしさであると捉えた。
吸血鬼は、人の血を吸って生きている人のこと。『ドラキュラ』や『カーミラ』の小説に登場する、生と死を超えた者・・生と死の狭間に存在する者で、ヴァンパイアとも言われ、映画にもなっている。
『あきる野』に、「新型コロナウィルス蔓延十六句」がある。
街歩き 内耳に魔笛ひびきつつ
葱坊主の列はみ出すも 変異株
黒マスク 烏天狗になれさうな
疫病隧道抜け来て またも隧道か
(えやみずいどうぬけきて またもすいどうか) *「疫病(えやみ)」はここでは「新型コロナウィルス」のこと。
人類の歴史は繰り返す宿命にあるらしい。十四世紀にヨーロッパで大流行した黒死病はペストだと考えられ、西ヨーロッパの人口の三分の一が死んだと言われる。
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1・父逝かせるに父に縋るよ 強き父 『あきる野』
(ちちいかせるに ちちにすがるよ つよきちち)
2・永遠は掌に乗る 母のたましいも 『あきる野』
(えいえんはてにのる ははのたましいも)
1句目は、「父逝く(2019年9月21日)七句」中の2番目に置かれている。
「父逝かせる」とは、今まで知らなかった言い方である。臨終の床にいる父・・大好きだった父・・まさに今死のうとしている父に・・もう十分ですよ、安心して逝ってくださいという気持ちがアンビバレントのような「父逝かせるに父に縋るよ」、となったのではないだろうか。
2句目は、私もこんな風に、母を送ってあげたかったな! 一人っ子の娘だったのに、九州の大分が故郷であるが、東京に出て60年を過ぎて・・母の葬儀に皆を呼ぶわけにはいかなくて、実際は、どたばたしてしまっていた。
「永遠は掌に乗る 母のたましいも」の作品に、なんだか私自身が救われてゆくように感じた。毎日の仏壇に、問うことも多く、返ってくる母のほほえみも日によってちがう。きっとこの句のように、母の愛は永遠なのであろう。
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1・本屋の子で版元の妻 紙魚の唄 『あるき野』
(ほんやのこで はんもとのむすめ しみのうた)
2・三か所に誤植があった 芋嵐 『あきる野』
(さんかしょに ごしょくがあった いもあらし)
3・神田村 汗の集荷を 小取次 『あきる野』
(かんだむら あせのしゅうかを ことりつぎ)
伊丹啓子は、俳人で編集者である。兵庫県生まれ。父は俳人の伊丹三樹彦、母も俳人の伊丹公子。夫は沖積舎舎主の沖山隆久氏である。
1句目は、父の伊丹三樹彦は書店の3代目で古本も扱っていた。夫の沖山隆久は出版社沖積舎の舎主である。古本はもちろん、新刊書も倉庫に保管しておくので、本には、「紙魚(しみ)」という見えないほど小さな虫が付く。
「本屋の子」で、沖積舎という「版元の妻」である伊丹啓子さんは、つねに、紙魚という虫にかこまれているが、この仕事がきっと好きで好きで大好きなのだと、下五の「紙魚の唄」から伝わってきた。
2句目は、編集者としての啓子さんである。編集する中で何度も読み直したはずであった。それなのに、出来上がった本を、祈るように開いて読みはじめると、校正の段階では気づかなかったのに・・誤植とパッと目が合ってしまったのだ。
すごく解る! 出版社蝸牛社で本を作るたびに、出来上がった本を開くたびに経験したことであった。
3句目は、一句が「五 七 五」と三段に切れている。まず「神田村」とは、書籍業界用語で神保町界隈のこと。ここに小さな版元は自ら注文の品を運ぶ込まなくてはならない。「汗の集荷を 小取次」を読んでいくうちに、私もこうした作業をし、自社の車で運んでいた時代があったことを思い出した。