今宵は、「菊」の作品を見てみよう。
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百丈の断崖を見ず野菊見る 高浜虚子 『六百五十句』
(ひゃくじょうの だんがいをみず のぎくみる) たかはま・きょし
掲句は、虚子が福井県三国に住む森田愛子を訪れた時のことで、昭和20年に小諸に疎開していた虚子が、三国、東尋坊へ出かけた時の句である。
鎌倉寿福寺の墓地の奥には、崖を削った矢倉群がある。「やぐら」は身分の高い人のお墓のことで、そうした源実朝・北条政子の矢倉の続きに虚子の矢倉がある。
確か、この辺りに「虹」の主人公となった森田愛子のお墓があるはず、と見回すと、整然と同じ向きに置かれた中に愛子の黒曜石のお墓だけが、虚子のお墓へ向けて斜めに建っている。
森田愛子は虚子よりもずっと早くに亡くなっているので、この向きで建立することは生前に伊藤柏翠(はくすい)から頼まれていて、虚子は了承していた。
私が、虚子の小説で一番最初に読んだ作品が『虹』であった。主人公森田愛子の純真さと美しさは、後に見た写真からも虚子の淡々とした文章からも伝わってきたが、虚子と愛子の俳句を通しての、なんとも言えずに伝わってくるのが愛子の虚子に対する心に敬愛以上のものを感じたことであった。
■俳句とともに生まれた物語「虹」
昭和18年11月15日、虚子は、伊賀で行われる芭蕉二百五十年忌に参列するための関西旅行の途次、故郷の三国に帰っている病弟子の愛子を初めて見舞った。一方柏翠も、三国へのご来遊を熱心に虚子に薦めていた。
「それは三国港が北陸きっての古き港で、松前貿易の北廻船の良港として、江戸末期には金の捨て場と云われ、花柳の巷としても三国小女郎の昔からの伝統が残り、芸妓の芸の良さも、又、町民にのこる義太夫芸のたしかさなどもお耳に入れてあり、殊に九頭竜河口の風景の美しさ、森田家の佇まい、愛子の家の四戸前の倉、その倉の石垣に打ち寄せる川水、鴨をはじめ、鳩、さては鵜までが、窓の下に遊泳する姿、即ち、昔栄えて今衰えた町の哀れ、余情について、虚子先生にお目にかけたかったのである。」(『伊藤柏翠自伝』より)
当日の『句日記』には9句あり、次はその中の2句。「句日記」とは、虚子が推敲した自作を1年後の「ホトトギス」に毎号発表したもので、制作年月日が分かる貴重な資料である。
九頭竜の吹雪をめでゝ娘は住めり
川下の娘の家を訪ふ春の水
18日、愛子たちは中山温泉の吉野屋での句会に参加した。句会後の宴会で、かつて三国芸妓として鳴らした愛子の母が唄い踊ると愛子も続いて踊りはじめた。母の芸の見事さと愛子の可憐さに、虚子は思わず声を挙げて泣き出してしまった。「虹」のメイン場面だ。70歳の虚子が何故声を挙げて泣いたのか、これは、もう少し後に考えてみる。
18日の『句日記』では、次の句が虚子が泣いた場面である。
」の
不思議やな汝が踊れば吾が泣く
19日の『句日記』には、2句。虚子の一行は次の旅程の京都へ向かうが、愛子たちは、同じ汽車に乗って敦賀まで見送っている。
敦賀まで送り送られ時雨来る
このとき、丁度三国の方角に虹が立った。
「虹が立つてゐる。」と虚子がいうと、「あの虹の端を渡つて鎌倉へ行くことにしませう。今度虹が立つた時に……」と愛子が独り言のようにいう、この出来事が「虹」の最初の場面である。
12月25日の『句日記』には「愛子に贈る」とした次の一句がある。
雪山に虹立ちたらば渡り来(よ)
こうして、「虹」の物語がはじまった。
昭和19年10月20日、『句日記』には虹の四句があり、前書きには、「虹立つ。虹の橋かゝりたらば渡りて鎌倉に行かんといひし三国の愛子におくる」とある。
浅間かけて虹の立ちたり君知るや
虹かゝり小諸の町の美しさ
虹立ちて忽ち君の在る如し
虹消えて忽ち君の無き如し
昭和20年11月5日、虚子は2度目の愛子居を訪問。前年に亡くなった関西の弟子西山泊雲の墓参りの途中に虚子の長男・年尾を伴って訪れ、このとき、句会をした九頭竜川に面した二階の部屋を、虚子は「愛居(あいきょ)」と名づけている。
昭和21年7月19日の『句日記』には虹の句が6句ある。「迷子、孔甫来」とあるので、句会をし、その「虹」が兼題だったのだ。迷子は岡安迷子、孔甫は安田孔甫である。虚子は何より句会が好きで、客が来れば句会をし、それをもてなしと考えていた。中の2句は小説のタイトルとなっている。
虹を見て思ひ/\に美しき
人の世も斯く美しと虹の立つ
虹消えて音楽は尚ほ続きをり
虹消えて小説は尚ほ続きをり
虹の輪の中に走りぬ牧の柵
虹消えて静かにもとの小村かな
虚子は、昭和19年9月から昭和21年10月までの約2年間に詠んだ中から、昭和21年羽田書店より刊行の『小諸百句』として発表していて、虹の句を6句入れている。
『小諸百句』を読んでいると、百句は連作の構成であって、連句と考えれば、虹の6句は、連句における恋の部の役割であり、写生文における山であるかもしれない。
「この小説(?)ははじまつてゐるのである」と、『虹』四部作の巻末で虚子は付記の中で疑問符をつけたが、さらに次のように続けている。
「一つの虚構もない。たゞ頭に深く印象したものを書いたのに過ぎない。(略)之が私の写生文である。同時に又小説でもあるかもしれぬ。事実を偽らずに書きはするが、書くべき事実と書かないでいゝ事実とを取り分けするのは私の心である。
事実を曲げなくても、何等フィクションを用ひなくても、事実そのものが小説である」と。
こうして疎開中の小諸生活で、「虹」は、先ず『小諸百句』として輝き、さらに、愛子と愛子を廻る人びとの虹のように清らかで美しい思いを選び取って書き連ねることで、虚子は、依頼された小説として完結させたのであった。
*この文章は、「虚子と散文」として何時の日か一冊の纏めるつもりで、準備していたものである。