第九百八十五夜 正岡子規の「柿」の句

 小学校時代に住んでいた杉並区下井草の家も、中学・高校・大学時代まで住んでいた練馬区石神井公園の家にも、柿の木は一本あった。柿の甘さを特に思い出すこともないので、渋柿だったかもしれない。母でなく祖母が、軒下に2個ずつ紐をつけて干柿にしていた。香草なども干していた。
 
 戦前に結婚した父は新聞記者となり、母は小さな会社の経理を任されて働いていた。戦後の貧しさと忙しさ追われて、母は疲労が元で結核に罹り、肺の手術と養生で丸一年の間を結核療養所に入院していた。
 今の私を思えば、祖母も同じくらいの年代であったので、まだ元気であった。祖母が母の代わりに家のことを全てしてくれていた。
 
 入院中の母は、一年間の国立療養所の毎日はベッドで寝てばかりいたわけではなく、回復期には、食事やお菓子づくりのサークルに参加したという。退院してからは、初めて台所にオーブンを備え、今までなかったメニューの食事やケーキも作ってくれた。
 今から66年前の、10歳の私は、パウンドケーキやロールケーキなど食べたことがなかった。退院後に父と母と私は、銀座のレストランで初めて、デザートに、洋酒に漬け込んだレーズンや柿の入ったパウンドケーキを食べた。生クリームが添えてあった。

 今宵は、「柿」の句を紹介してみよう。


  三千の俳句を閲し柿二つ  正岡子規  『俳句稿』
 (さんぜんの はいくをけみし かきふたつ) まさおか・しき

 正岡子規が、新聞「日本」の俳句欄の選考を受け持っていた頃のことである。「閲し」とは、送られてきた投句をよく見て、間違いがあるかをチェックすることである。俳句の場合は、文字の間違いは無論であるが、季題が一句の中で効いているかどうかが、作品の善し悪しにとって重要なことである。
 俳句の投句は、一人一句の人ばかりでなく、一枚の用紙には五句の人、十句の人もいるだろう。
 こうして子規は、三千人もの、三千枚にも及ぶ投句用紙を毎月閲していたのだ。

 病子規の健啖ぶりは、よく知られている。柿も又大好物の一つであった。
 この句の他に、「我死にし後は」と題して「柿喰ひの俳句好みしと伝ふべし」の作も準備してあったという。三千にも及ぶ、沢山の投句をようやく選句し終わり、ほっと一息入れて柿二つを食べる作者である。
 
 この句を詠んだ頃の子規は、ほとんど一日中布団に横たわっていた。子規の家には、若き日の俳人の高浜虚子や河東碧梧桐、歌人の伊藤左千夫など、毎日のように集まっていた。
 

  よろよろと棹がのぼりて柿挟む  高浜虚子  『五百五十句』昭和15年作
 (よろよろと さおがのぼりて かきはさむ) たかはま・きょし

 散歩中に塀の外から見えていた光景であろう。塀の内側では、家の主が棹をゆらしながら柿の実を取ろうとして長い棹と格闘しているところであった。もう少しで柿は、棹に挟まれそうになると、柿はつるっと棹から逃げてゆくのだ。
 
 よろよろと動く棹が気になって、塀の外の人は長いことはらはらしながら眺めていた。だがついに、塀の内側の主が無事に柿を挟むのを見届けたのだ。胸をなで下ろしている人の顔が浮かんで来るようであった。

 昭和15年という、まだ長閑さもあった時代の、町内の光景である。