第九百八十六夜 加藤楸邨の「すいつちよ」の句

 晴れた日の秋の夜空は、虫と蟬たちの賑やかな鳴き声と星々の煌めきが、うつくしいハーモニーを奏でているかのようだ! 犬のノエルが近づくと虫たちは、はたと鳴き止み、通り過ぎると再び順に鳴きはじめる。そこには「間」があって、順番という「間」の間隔の見事なこと! 
 
 昆虫図鑑で調べてみると、蟬は夜は鳴かないとある。だが実際には鳴いている。明るさと関係があるのだという。茨城県守谷市は、近くを流れている利根川を渡ればすぐに、千葉県、埼玉県、東京都である。東京から移り住んで20余年の私たちは、今では果てしなく都会に近い、夜も明るい地域の守谷市民だという気持ちであるが、虫たちと同じであるかどうかはわからない。
 
 散歩の途中で立ち止まって虫に耳を澄ませてみるが、私と犬のノエルが近くにいる間中は決して鳴きはじめることはない。虫たちは、明るさだけではないかもしれない鳴くという秘密を、そう簡単には教えてはくれそうにない。

 今宵は、「馬追」「すいっちょ」の作品を紹介しよう。


 1・すいつちよの髭ふりて夜のふかむらし  加藤楸邨
 (すいっちょの ひげふりてよの ふかむらし) かとう・しゅうそん

 2・馬追のはつたと落ちし稿の上  富安風生
 (うまおいの はったとおちし はしのうえ) とみやす・ふうせい

 この「千夜千句」も、第九百八十六夜となった。スタートする時は、言葉は無限に近いものだから、千夜も千句も、例句を探すことがこれほど大変な作業になるとは考えていなかった。俳句の季語は、どの歳時記にも2500から3000近い季語が例句とともに掲載されているから・・。
 私は、かつて夫の設立した出版社「蝸牛社」で本造りをしていた。いくつかヒット作があった中で、俳句関係の本に興味をもった。『蝸牛 新季寄せ』の編集はじつに楽しい時間であった。俳句文学館、国会図書館、丸の内にあった頃のホトトギスの事務所にも行っては、俳句を探したり作者を探したりした。編集だけしていればよかったのに、私はいつしか俳句実作に嵌ってしまった。
 
 今回の例句は、秀句350選シリーズの21巻目の宮坂静生編著『虫』から選んだ作品である。
 宮坂静生先生は、当時は信州大学教授でお忙しい時期であった。原稿は遅れ遅れで、書き上げた順に何十枚かずつを纏めてFAXで送ってくださった。当時のFAXは一枚ずつ器械から、ガラガラ音を立てながら紙が入ってきたことを思い出している。今から32年前のことであった。
 きっと先生は一枚一枚手差しで送ってくださっているのだろうな・・と、私も一枚一枚入ってくる紙を、束ねては隣のテーブルに運んでいた。そして端から原稿を読ませていただいていたという、有り難くも一番目の読者であった。

 加藤楸邨の掲句も富安風生の掲句も、私の昔話とは関係ないのに、不思議に、この2句からあの頃の光景と重なる、のんびりした時間の流れを感じてしまった。