第九百八十八夜 高浜虚子の「芋虫」の句

 小学校では夏休みの宿題は、問題集を一冊仕上げることと、他に一つ自分で決めた自由研究があった。私が自由研究で何を提出したのかおぼろげであるが、記憶に残っているのは、ある年はカブトムシやクワガタ、ある年は蝶や蛾の標本を針で刺して大きな木箱に並べたものを、両手で抱えて先生に提出していた小林君のことである。
 夏休みの提出物は、教室の後ろにテーブルを並べて、しばらく飾っておいて、学校中の生徒たちが昼休みの時間に自由に見学できていた。
 思い出すのは今も、小林君の昆虫採集の一箱の見事な出来栄えであった。
 昆虫採集に仕上げてあるものは、生きている虫ではなく、薬で処理されて腐ることもない虫たちである。
 担任の久田先生は理系で、小学校では全科目教えてくれるのだが、理科の時間は、2時間通した時間割であった。2時間あると実験も意見交換もじっくりできていたように思う。教室の席は背の順なので、後部座席には、同じメンバーが多かった。山本くん、笠松くん、前畑くん、伊藤くんたちであった。物知りな彼らは手を上げて答えるのでなく、ぶつぶつと正解を言っていた。
 
 「重石さん、答えてごらん!」と、久田先生に指された私は、後ろから聞こえていたぶつぶつ言っていた通りに答えた。
 「よく知っているね!」と、私が褒められてしまったことも何度か・・。お陰様で、理科の授業の楽しかったこと! 重石ミホ(しげいし・みほ)は、私の旧姓。中学一年の頃は習いたての英語で「へビー・ストーン」とからかわれた・・が!
 
 今宵は、「芋虫」の作品を見てみよう。


  命かけて芋虫憎む女かな  高浜虚子 『五百五十句』昭和11年
 (いのちかけて いもむしにくむ おんなかな) たかはま・きょし

 高浜虚子に『喜寿艶』という、虚子の77歳の記念の句集で、女ばかりを詠んだ49句を集めた句集がある。
 左頁には自筆の句があり、頁裏には、短い文章がある。
 掲句は次のようである。
 「芋虫がきらひな女。芋虫のことをいうただけでも消え入りさうになる女。」
 
 虚子のいう「消え入りさうになる女」とは、男尊女卑の気風が残っていて、女性は男性に頼っていかねば生きられない・・時代であった
 20世紀も5分の1を過ぎた現代においては、若い女性にも見かけなくなった仕草ではなかろうか。今の女性たち、わが娘も、じつに堂々としている。
 

  芋虫の地を進みゐる捨身かな  吉田汀史 『蝸牛 新季寄せ』
 (いもむしの ちをすすみいる しゃしんかな) よしだ・ていし

 茨城県取手市に東京から移転した私は、東京で参加していた深見けん二主宰の「花鳥来」の吟行句会には、滅多に出席することが叶わなくなっていた。茨城県南を見て歩こうと、80歳になっていた母を連れて出かけた。母が吟行の相棒となった。

 常総市に、遺されている江戸時代からの豪農屋敷の坂野家住宅というがある。カーナビに従って無事に到着。駐車場から下りて、道を横切ろうとした時、目の前を大きな芋虫が先に横切ろうとしていた。
 
 相手が芋虫といえども順番は守らねばならない。というよりも、芋虫の歩み方の必死さは、まさに、吉田汀史さんの作品の「地を進みゐる捨身」の姿であった。
 私は、芋虫の必死さに圧倒されて、向こう側に着くまで見届けていた。
 
 「捨身」とは、仏を供養するため、衆生を救うために、身を捨てて事に当たること、であるという。芋虫の捨身とは違うかもしれないが、必死な姿こそが「捨身」であると見留めた、吉田汀史さんの捨身の心であるとも言えようか。