第八十七夜 正木ゆう子の「烏瓜」の句

  あっそれはわたしのいのち烏瓜  『静かな水』
  
 正木ゆう子(まさき・ゆうこ)は、昭和二十七年(1952)熊本生まれ。一足先に俳人となっていた兄の正木浩一に誘われて同じく能村登四郎に師事し、「沖」の同人。俳論『起きて、立って、寝ること』で俳人協会評論賞受賞。代表句に〈水の地球すこしはなれて春の月〉がある。
 
 掲句の鑑賞をしてみよう。
 
 烏瓜は、ウリ科のつる性多年草で木々にからみつきながら上へと育つ。やがて夏の夕方から宵にかけて、糸状に裂けた真っ白なレースのような五弁の花が咲く。庭に植える草花ではないので、野山や雑木林に行かないと出会うことはむつかしい。秋になると、赤い夕日の色をした実をつける。小形のカラスウリを見つけたとき「あっそれはわたしのいのち」と瞬間に捉えた正木の、なんとストレートな表現であろうか。この作品を知って以来、私も烏瓜を見つけるや、まるで自分の分身の「いのち」に出会ったかのように叫んでしまう。
 
 〈蓬食べてすこし蓬になりにけり〉〈着膨れてなんだかめんどりの気分〉など、不思議な身体感覚と詩的感性の豊かな言語感覚の作品は、とても真似をすることなどできない。蓬の句からは、色白の正木の顔がほんの少し薄緑色になったように感じられるし、真冬の吟行先で着膨れた正木に会えば、コートやら毛糸の帽子やらマフラーで完璧な防寒服姿は、ころころした「めんどり」になっているに違いない。

 正木は、「生命と俳句 — 俳句とは何か」と題された文章の中で、「一句一章が切り取る瞬間」という言葉を使っているが、作品は、確かに圧倒的に一句一章が多い。瞬間を切り取ることで存在を顕現させるタイプの句を好むということであろう。さらに「自己が詩となって時を充填できるのは、今の瞬間においてだけであろう。なぜならそこでしか人は時と交差しないからだ」とも言っている。
 
 母を亡くした直後に詠まれた句を、句集『羽羽』の中から紹介する。

  此処すでに母の前世か紫雲英畑  『羽羽』

 正木の眼前に広がっている紫雲英畑は、天上の母から眺めればすでに「前世」の光景である。前世と現世を二重写しにして詠んでいる。父が亡くなり母が亡くなり、兄は早逝している。筆者の私もそうであるが、父が亡くなり母が亡くなって初めて、何もかもが剥がれた素の自分を感じた。