いよいよあと10日で千夜となる。あと10の文章しか書けないとなると、あのことも、あの句も、あの人のことも、まだ書いていない!・・と、気持ちが激流となって押し寄せてくる。
俳人には俳句には季語がある。大切な・・大きな季語が抜けてはいないか、名句を落としてはいないか・・それだけを考えて「千夜千句」を閉じることにしよう。
目の前に置いてある野村陽子著『細密画で楽しむ 里山の草花100』を手に取った。植物細密画と文のコラボであるが、主役は、細密画による見事な植物画である。文は、あらきみほが添えた。
編集の段階で、花だけの図譜でなく、根っこまで描かれた作品が多いことに気づいた。最初に惹かれたのは「落花生」の作品。「引っこ抜いたらこんがらがっていたので、茎で結んでみました」という落花生の一株であった。
描く題材は身近な野の花が中心で、必ず自分で採取するという。本書を仕上げる前に、陽子さんの住む長野県上伊那郡清里のご自宅に何度か通った。陽子さんがいつも歩いている落葉松の雑木林を歩いた。
次の2句は、私がその時に詠んだもの。
落葉松散る一つ一つの針光り
零余子飯ほどのぬかごをひとゆすり
「描きはじめたら、いつまでも筆を離したくない、花と向き合っていたい。だから、細密画という画法を選んだのだと思う」と、陽子さん。
「うちのカミさん、葉脈だけになったレースのような枯葉を、バカかと思うくらい、何日も何日もかけて描いているんだよ。」とご主人。
『細密画で楽しむ 里山の草花100』に収められた枯葉の2枚の作品は、美しい花を美しく描いたものよりもはるかに繊細で美しい。
今宵は、陽子さんの細密画の「紅三尺」の葡萄を思いながら、作品を紹介してみよう。
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秋を掌にのせしと云へる葡萄かな 永井東門居 『現代俳句歳時記』角川春樹編
(あきをてに のせしといえる ぶどうかな) ながい・とうもんきょ
一房が大きい。片手には載りきらないので両手に載せてみても、なお葡萄は端から落ちそうである。この葡萄は、たとえば「紅三尺」ではないだろうか。
一房の葡萄を、永井東門居は「秋を掌にのせしと云へる」と詠んだ。葡萄のずっしり感と、秋を掌に載せた重さは、あの紅三尺とどこか似ている。
永井東門居とは小説家永井龍男の俳名である。
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葡萄の種吐き出して事を決しけり 高浜虚子 『五百句』
(ぶどうのたね はきだして ことをけっしけり) たかはま・きょし
大正3年10月18日、発行所例会での作品。
どこの家にも縁側のあった時代である。庭に向いた畳の部屋には障子があり、縁側があって、ガラス戸があって雨戸があった。
掲句は、ガラス戸を開けた縁側で庭に向いた机で考え事をしていたのであろう。大正3年といえば、正岡子規が亡くなって12年目であり、虚子には大勢の弟子がいた。子規が亡くなる前に、上野の森に呼び出された虚子は子規から「後を継いでくれ」と言われたが、はっきり答えることはしなかった。
大正元年、虚子は、暫く中絶していた「雑詠欄」を復活した。この頃の虚子は腸を病んで病気がちであったが、子規が亡くなり、「ホトトギス」を継ぐことを決意した。
1・霜降れば霜を楯とす法の城 大正2年作
2・春風や闘志いだきて丘に立つ 大正2年作
3・時ものを解決するや春を待つ 大正3年作
4・葡萄の種吐き出して事を決しけり 大正3年作
『五百句』の大正時代の初めに虚子はこうした句を詠んだ。本音としては河東碧梧桐に子規の後を継いでもらって、虚子自身は小説に向かいたかった。だが碧梧桐は、当時流行りだした新傾向俳句に向かってしまったので、腸を病んで病臥していた身を押して、大正2年「ホトトギス」誌上に雑詠欄を復活させた。その翌年に詠んだのが3句目と4句目であった。
虚子自身の俳壇復帰の決意であるとも読めるであろう。