第九百九十七夜 松平知代の「冬椿」の句

 毎日のようにブログ「千夜千句」を綴っていると、次に何を書こうかしらと、本棚の句集を探し回っている。ある日、導かれるように句集『冬椿』と目が合った私は、そのまま階下の廊下で立ち読みをしていた。
 
 数日後のこと、不思議なことに、『冬椿』の著者松平知代さんの娘さんの美和子さんから、お母様が94歳でお亡くなりになられたという喪中の挨拶状が届いた。この日からは、追悼の意とともに何回となく『冬椿』を開いている。
 
 句集『冬椿』を私どもの蝸牛社で制作したのは、20年前のことであった。初めて松平知代さんのマンションを訪れたのは、守谷市で立ち上げた「円穹」句会のメンバーの星川和子さんのお陰である。同じ市川市の、近くに住む松平知代さんをご紹介くださったのであった。
 星川和子さんも、もう大分前に亡くなられてしまった。

 今宵は、松平知代作品を紹介させていただこう。


  イタリアのマンマの味の林檎煮る
 (イタリアの マンマのあじの りんごにる)

 句集『冬椿』を開くと、ケーキの写真が、表紙にも各章の扉にも文の合間にもちりばめられてある。見事なゴージャスなホールケーキなので、最初は名店のケーキであろうと思ったが、そうではなく、松平知代さんの自作のケーキであった。
 あとがきを読み直し、書かれている松平家の家系図をネットで調べていると、句集『冬椿』の本造りの件でお逢いした時のお話が蘇ってきた。会津藩士の松平容保は、陸奥国会津藩9代藩主であった。この松平の家系に連なるのであろう、知代さんの伯父は明治時代になると外交官として海外で活躍していた家柄の方であったという。
 
 食文化として贅沢なケーキが常に身近にあったのだ。ご主人を早くに亡くされた知代さんは、得意のケーキ作りで、主婦と生活社の雑誌「ジュノン」などでお菓子の頁を担当するなど、活躍されていた。

 掲句は、松平知代さんがイタリアの友人宅でご馳走になりレシピを教わった、その時の味を思い返しつつ林檎を煮ていたという俳句である。


  モネの絵の雲さながらに秋ひと日
 (モネのえの くもさながらに あきひとひ)

 この「モネの絵」は「日傘をさす女」であろう。丁度、私の部屋に飾ってあるカレンダーの5月の絵がクロード・モネの「日傘をさす女」であった。土手の上を歩いてゆくアングルである。顔も翳り、影は手前に伸びていて、スカートの裾が揺れているようだ。 背景に広がる空の雲は、真っ白というよりは夕べが近いことを思わせるほんのりしたピンクも感じられる。
 
 松平知代さんは、モネの絵のごとく、市川市を流れる真間川の土手を一人娘の美和子さんと散策していたのかもしれない。爽やかな秋の日のぬくもりの一と時であったのであろう。


  寂しさも自由の一つ冬銀河
 (さびしさも じゆうのひとつ ふゆぎんが)

 この作品の「寂しさも自由の一つ」に、なぜか憧れる。「寂しさ」は、ご主人を亡くされ、ご家族と楽しく暮らすことができなくなったということではない。一人の時間を過ごすことを寂しいとは考えず、何かできる時間であると考えた。やりたいことが出来る自由がそこにこそあるというのであろう。

 季語を「冬銀河」としたことに意味がありそう・・。夜空の星の一つ一つは光年という単位で互いに離れて光っている。光が1秒間に進む距離は、地球を7周半回る距離と同程度だといわれる。
 星に心があるならば、星の寂しさは如何ばかりであろうか。つまらないことで悩んでいることが可笑しくなるほど、時の流れは広大無辺である。


  娘への愛もてあまし冬椿
 (むすめへの あいもてあますし ふゆつばき)

 松平知代さんは、ご主人を早くに亡くされて、長いこと一人娘の美和子さんと2人暮しであった。一人娘にそそぐ愛は一途で、ご自分も「もてあます」ほどであるという。
 
 この作品には、知代さんの所属している俳句結社「鴫」の水辺漁渉評がある。
 「親にとっては子供はいくつになっても子供、何やかや気にかかるもの。ついつい口に出してしまう。そんな母親の心配性を疎ましく感じている娘である。持て余している娘への愛を自愛に変えて健やかに過ごされるように。」

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 美和子さん、お寂しくなりましたね。
 10月も終わろうという、毛糸の季節・・
 戴きました手編みのコート・・
 今も、大切に着ております。
 
 あらきみほ
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