第十夜 志解井司の「冬銀河」の句

 平成9年2月2日、あらきみほの父志解井司が79歳の寿命を全うした日である。もう没後50年になる。父の本名は重石正巳。俳号を「重石」は、名字の「しげいし」を漢字で姓を「志解井(しげい)」、名を「司(つかさ)」とした。生地は大分県大野郡大野町。父の両親の家は代々の庄屋であったが両親は揃って早死をし、父は親類の伯父の大家族の中で育った。
 九州大分の阿蘇山を見晴らす山奥で育った父は、東京に出て東京外国語大学露文科を卒業。ロシア人の女性教授と並んでいる写真が残されている。卒業直後にドブロリューボフの『打ちのめされた人々』を重石正巳・石山正三との共訳で日本評論社から世界古典文庫の一冊として出版している。子ども向けのトルストイや恋を描いたツルゲーネフは大好きな作家で私も読んでいるが、父の遺した一冊として、ドブロリューボフの書はいつか読もうと、仏壇の脇の書棚に置いていたが、なかなか開くまではいかなかった。
 
 だが、2月2日の今日は父の命日である。仏壇の脇から下ろして、まず、父重石正巳の書いたあとがき「ドブロリューボフについて」を読んだ。私の好きなツルゲーネフだったらいいのに、と思いつつ読み進んだ。共産党員であった父らしい!
 
 父の本箱にずらり並んでいたソ連の本、共産党に関する本ではなくっても、ソ連の本というだけで母は書物のタイトルが見えないように、反対向きに並べていた。当時のソ連の雑誌もあって、コルホーズ、ソホーズという新しいソ連の農業形態の写真が多く載せられていた。働いている人々が晴れやかで新鮮に感じられた。
 
 就職した日本証券新聞社を30年目に退社した後、父は、ハイテクノロジー関連のブックレット30余冊を執筆し、ブックレットを30余冊を作った。
 
 父の俳句は、膨大な読書量から始まったようである。父が喜寿を迎えた年、娘婿である夫の荒木清の作った出版社「蝸牛社」から、喜寿のお祝いに句集『練馬野』を作ってプレゼントした。父の詠んだ俳句ノートは、今も大きな漆塗の書類箱に残されている。新聞記者時代の名残の速記の丸文字は娘の私でも読み取ることができない。つくづく句集『練馬野』を作っておいてよかったと思っている。
 句集を繙けば、俳句から父のたくさんの想いが伝わってくる。
 この句集には、石神井句会でお世話になった「炎環」主宰の石寒太先生が、「年輪の襞--句集『練馬野』の世界」という一文を書いてくださっているので、一部を紹介する。
 「志解井司さんが句会に見えなくなって久しい。淋しいことである。巨体を少し屈めながら、にこやかに笑っている顔は、いつも皆の人気者である。(略)また、やたら植物にくわしい。吟行などにゆくと、婦人たちは、たちまち彼を囲んで、新しい植物の名前を教わる、それが楽しみらしい。(略)司さんは、波郷以上に、こよなく酒を愛している。酒は四季を通して無二の友となっているのだ」。著書に『焼酎讃歌』。

■今宵は、父である志解井司の俳句を紹介させていただこう。
 1・
  抱瓶に侘助ひとつ波郷の忌
 (だちびんに わびすけひとつ はきょうのき)

 父は石田波郷の俳句が好きだった。私たちが杉並区から練馬区へ越してきた頃には波郷はすでに練馬区谷原の住人ではなかったが、かつて住んだ家の垣の前には「波郷旧居跡」の立看板があった。父は自転車に乗ってかなり遠くまで探検していたから、立看板を見つけることができたのだろう。
 わが家には夫の沖縄の旅行土産の抱瓶がある。父母へのお土産であったが、父も母も亡くなった今、抱瓶は一人っ子であるわが家の居間に戻ってきた。よく椿の一枝を挿している。

 2・
  ソ連失せイワンの馬鹿のふところ手
 (それんうせ イワンのばかの ふところで)

  俺の柩おれが運んで冬銀河
 (おれのひつぎ おれがはこんで ふゆぎんが)

 この2句は、私の好きな父の作品である。
 一句目の「イワンのばか」は、小学生の頃に父が買ってくれたトルストイの童話の登場人物である。詳しくは覚えてはいないが、イワンは愚直なほどに自分の手と足で広大な畑を耕していた。愚直ばかりでは、傍から見ていると損な生き方のようにも、愚かな生き方のようにも見える。
 小学生の私はイワンをどのように見ていたのだろうか。一つだけ覚えているのは、ある男がイワンに広大な土地を前にして言った「好きなだけ土地をあげるよ、だが、イワンの土地だと分かるように縄を張り巡らさなくてはだめだよ。」である。
 イワンは欲張りだったのではなかった。ただ、こつこつと縄を張る仕事をしつづけた。男は呆れたように見ていた。その後、自分が綱で囲った土地を手に入れたイワンは、大変な土地持ちになったのであった。広い広いソ連の地ならではの物語・・。
 季語「ふところ手」とは、人に任せて自分は何もしないことである。
 さてこの俳句で、季語を「ふところ手」とした志解井司は、何が言いたかったのだろう。「ソ連」という名の国家は亡くなったが、ロシアという名になっている。
 
 二句目、
 この作品が、句会で回ってきたとき作者が誰であるかは分からなかったが、不思議な感覚に襲われた。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をふっと思わせたからであった。人間の自分が、死んだ自分が収められた柩を担いで、広大な夜空の冬銀河をピューッと走りぬけるというのだ・・想像するだけで愉しいではないか?
 冬銀河のいずこにか、墓場があるのかもしれないと、宮沢賢治なら考えるだろう。
 わが父志解井司は、俳句を詠みたいと思ってから、俳句関係の雑誌や俳誌や旧友たちに毎月送っていた総句数は1万句に達していたという。ノートに日付とともに記してある。

 3・
  やはらかき時計が三つ枯木灘  
 (やわらかき とけいがみっつ かれきなだ)

 「ダリ死す」の詞書のある作品。志解井司は読書家で家中が本でいっぱいであった。絵画の収集もしていたが絵画の本も本棚に溢れていた。兜町の株式新聞社の記者であった当時から、自分でも株を買っていた。株の相場は値が上がったり急落したり・・良いときもあるが、急落すれば大損となる。
 ダリの絵は高価で買えない。大きなダリの画集を買った時には、「ミホ、これがダリの絵だよ!」と、抽象画の見方を話してくれた。
 
 ある日、案の定、父は株で痛い目にあった。たくさんの画集も、何点かの本物の絵画も売り払ってしまう日がきた。玄関や書斎や廊下に飾ってあった作品が、娘の私の目にも素晴らしかった作品が、画商に値踏みされ売られてしまうことになった。中学生か高校生になっていただろうか。 

■あらきみほ句集『ガレの壺』で父を詠んだ句より
  ふりむけば父尉くる梅の道
  いつぴきのほうたるついと父の腕  椿山荘にて
  父ときて夜は夫ときて大桜
  墓洗ふ父のよろけてみせにけり  秩父にて
  長崎ハ暖カキ雨父死セリ  長崎にて父の死を知る
  豆打たば父まで消えてしまひさう
  花たんとたんと入れましよ花柩
  玉椿炉に辷りこむ柩かな
  喪の家や目刺一串けむたがる
  納骨やうめももこぶし初ざくら
  をだまきやみんな昔の父語る
  朧夜のわたしにひそむ懐かぬ猫