あのときの雪が風花だったかもしれない、もう50年ほどの昔、高等部を卒業し大学入学までの一月ほどの春休み、小雪のちらつく春先の長野のスキー場で出合った雪がきっと風花であったのだと思っている。
高浜虚子の「風花」の作品と、作りたての私の「風花」の作品から鑑賞してみよう。
■今宵は、「風花」の句を紹介しよう。
1・風花はすべてのものを図案化す 高浜虚子 『六百五十句』昭和21年
(かざはなは すべてのものを ずあんかす)
詞書には「二月十六日 稽古会。小諸草盧。」とある。
高浜虚子は、この日の稽古会に出した次の4句を『六百五十句』に収めている。
溝板の上につういと風花が
風花はすべてのものを図案化す 『六百五十句』昭和21年
鍬かつぐ男女ゆき合ひ畑打(はたけうち)
紫と雪間の土を見ることも
この4句も合わせて、景を思い浮かべながら鑑賞してみよう。
2・いづくとも無く風花の生れ来て 高浜虚子 『六百五十句』昭和21年
(いずくともなく かざはなの うまれきて)
「風花」は、青空の中を花びらが舞うようにチラチラと雪が降って来ることがあって、この雪を「風花」という。どこにでも見られるものではなく、日本列島の日本海側に広がる雪雲から風に流されて風下側に落下するように降るのが風花である。
3・風花と風花の間ぞ間は魔とぞ 馬場駿吉 『秀句三五〇選8 風』蝸牛社
(かざはなと かざはなのまぞ まはまとぞ) ばば・しゅんきち
大串章編『秀句三五〇選8 風』はかつて、わが蝸牛社から出版された書である。「風」のテーマで350句を選び、解釈と鑑賞を書いてくださっている。引用させていただこう。
青空にちらつく雪片。その間合い。その空間。「間は魔とぞ」という声が突如としてひびく。この句が単なるコトバ遊びにおわらず、私たちに一種の酩酊と覚醒とを感じさせるのは、風花と風花の「間」という美しい空間を設定して、そこにいきなりまがまがしい「魔」を登場させたところにある。と。
■みほの句から
青山学院高等部の3年生の時であった。隣の席だった北澤佑子(後の清水佑子さん)さんとお話するようになった。もの静かな方であったが、ある時、美しいガラス器の本を見せてくれた。それがエミール・ガレであった。
大学を卒業し、長崎県長崎市の活水女学院で4年間英語教師をした後、東京へ戻った。車の運転をするようになっていた私は、あちらこちらへ出かけたが、ある時、北澤佑子さんのお父上が収集されたエミール・ガレやドーム兄弟のアール・ヌーボーのガラス器を展示してある長野県諏訪湖畔の北澤美術館へ車を飛ばした。
1・ガレの壺の中にあるごと黄落す
(ガレのつぼの なかにあるごと こうらくす)
北澤美術館には何回か出かけたが、ある時、道に迷ったかもしれないとドキドキしながらも山中を抜けて行ったことがあった。30年近く前のことであった。車は赤のミニクーペ、多分、ルートの設定機能は付いていなくて、地図係は夫であった。
秋のドライブで北澤美術館へ行った折には、朝の日射しを浴びて雑木林の紅葉も落葉松の黄葉も透明にかがやいていた。降り立った私たちは、まさに、ガレの器に入ってしまった彩りの中にいた。句集『ガレの壺』にはこの一句を入れた。
あらきみほ句集のタイトルは『ガレの壺』。表紙には、北澤美術館のコレクションの作品を使わせていただいた。序文をお願いした深見けん二先生は、序文を書く前に、龍子奥様とご一緒に千葉の美術館で行われていた「エミールガレ展」へ足を運んでくださった。有り難いことであった。
たくさんのお陰で、句集『ガレの壺』は出来上がった。
『ガレの壺』のあとがきは、次の書き出しで始まっている。
「遠くへドライブに行くときだけは早起きをする。混雑を避けるためであるが、黒い夜明けから、やがて雲に光がのって桃色に染まってゆくハイウェイを走るのが好きである。
俳句を始めてからその早起きは、朝の光の中での花や新緑や白鳥や露に出逢いたいからという目的に変わってきた。横からのあるいは斜めからの光線を受けて、自然は必ず、思っていたよりはるかに素敵な様相を見せてくれた。」