第十二夜 中村草田男の「梅真白」の句

 出版社蝸牛社からテーマ別アンソロジー『秀句三五〇選』出した折、第28巻目は、鈴木伸一編の『秀句三五〇選 28 地』であった。

 例句は鈴木伸一さんの選んだ「地」の作品から、春の季語であるものを紹介させていただこう。「生死」「人間」「自然」「心」の四章に分けてあり、見事な鑑賞をされている。


 1・勇気こそ地の塩なれや梅真白  中村草田男 句集『来し方行方』『秀句三五〇選 28 地』
 (ゆうきこそ ちのしおなれや うめましろ) なかむら・くさたお

 ページを開けると、鈴木伸一さんの選んだ一句目が、中村草田男の作品で次のような書き出しであった。
 「私事だが、「地」というテーマでまず思い浮かべたのが、この句。『聖書マタイ伝』の「汝らは地の塩なり」に由来する。草田男の作品中でもとりわけ名高い句であるが、多くの人々に記憶されるというのも、たしかに秀句の条件の一つだろう。「地の塩」とは、生あるものもの全てに向けられた、根元的精神の比喩。「梅真白」の日本的美意識が調和し、ヒューマニスト草田男の面目躍如。」
 【梅真白・春】


 2・落椿折り重なつて相対死  安住 敦 『秀句三五〇選 28 地』
 (おちつばき おりかさなって あいたいじに) あずみ・あつし
  
 「相対死(あいたいじに)」とは、江戸幕府の法制上の用語で「情死」「心中」のことで、男女二人が申し合わせて自殺することであるという。
 安住敦は、落椿の上に形の崩れぬままに落椿が重なるようにして地に落ちている椿を、男女二人の情死の姿であると見た。「相対死」「あいたいじに」には凄まじさを感じる。死んでも一時も離れたくない・・身体の一片も離れていたくない、という互いの気持ちが大地に重なって落ちた二輪の椿なのではないだろうか。
 安住敦の俳句のモットーは、「花鳥とともに人生があり、風景のうしろに人生がなければつまらない」である。
 【落椿・春】


 3・やすらふや耕す土にひた坐り  池内たけし 『秀句三五〇選 28 地』
 (やすらうや たがやすつちに ひたすわり) いけのうち・たけし
  
 「祖先の記憶をとどめた大地に腰を下ろし、農民たちが休息を取っている。下五の「ひた坐り」は、土に生きる人々を見事に捉えた表現だ。特に、「ひた」という接頭語が、苛酷な労働から一時開放され、束の間の安息をむさぼるようにしている農民の姿や心を、余すところなく伝えている。
 俳句は、たった一語の働きで、にわかに光彩を放つことがある。」
 【耕す・春】


 4・赤い椿白い椿と落ちにけり  河東碧梧桐 『秀句三五〇選 28 地』
  (あかいつばき しろいつばきと おちにけり) かわひがし・へきごとう
 
 蝸牛社で一番最初に出版したのは、たしか本著の監修者滝井孝作のご長女であった。滝井孝作は既に亡くなられていたが、ある日、滝井孝作の娘さんから、『碧梧桐全句集』を作ってほしいというお手紙を頂き、暫くしてダンボール一杯の句稿が届いた。
 どうしよう・・編集をしている友人に相談した。会社勤務の彼女は休日になると、句稿の整理の仕方を教えてくれて、ついには、仕上げまで手伝ってくれたのであった。お陰で、仕上げることができた。
 
 「地」の編者の鈴木伸一さんの鑑賞はこうである。
 「椿」の花がぽとりと落ちてゆく。その先には、それを受け止める「大地」が想定されているだろう。この作品が、なぜ秀句なのかと言えば、それは「大地」の安定感を、読み手の側が自然に感じ取れるよう構成されているからだ、という。
 
 「大地」の安定感とは、空間から何かが落ちれば必ず受け止めてくれる大地がある、ということである。理科の時間に、ニュートンの万有引力の法則を習ったのは小学校高学年であった。実験の好きな担任の久田先生は、必ずのように、生徒たちに同じことを試みさせてくれた。戦後の貧しい時代の小学生であったから、一人一個のリンゴで実験はしなかったが、印象的な授業であった。
【落椿・春】