第十五夜 種田山頭火の「うどん供えて」の句 

 今宵から、出版社蝸牛社刊『秀句三五〇選6 死』より二日間、死の作品を紹介させていただこう。
 編著者の倉田紘文先生は、解説〈死〉で次のように書き出していた。
 「”死”・・なんと遠くて身近な思いをさせる語であろう。その「死」に面とむかって、私はこの数か月間を過ごして来た。この『秀句三五〇選』で「死」のテーマと取り組んだ日からである」と。
 当時はまだ48歳の倉田紘文先生であった。
 蝸牛社社主の荒木清との電話の会話を事務所の一室で聞いていたが、「死」のテーマを引き受ける紘文先生の胸の内の困惑・辛さが聞こえてくるようであった。死の作品は多いかもしれないが、身近な死であることが多くて類想句が多かったという。
 紘文先生は、三五〇作品を四つの章に分けた。
 Ⅰ 合掌――故人を弔う
 Ⅱ 南無――死観を詠う
 Ⅲ 時空――自然・動物・植物
 Ⅳ 他郷――移民の人たちの生死観

■倉田紘文編著『秀句三五〇選6 死』より

 1・うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする  種田山頭火
 (うどんそなえて ははよ わたくしもいただきまする) たねだ・さんとうか

 山頭火の母は、父の遊蕩によって絶望したのであろう、井戸に身を投げてしまった。その後の種田家は破産した。深い悲しみからか、山頭火は結婚しても妻と子を置いて出家得度をして、行乞流転の旅人となってゆく。
 この作品もどこか飄々としている。ふとした時に口づさんでいると、山頭火に慰められる思いを起こさせてくれるのではないだろうか。
 
 毎朝の御仏飯(おぶっぱん)は、わが家では夫の実家でそのようにしてきたことから、私も欠かさず仏壇に供えている。【Ⅰ合掌―故人を弔う】

 2・花の雨讃美歌死者を送りけり  島谷征良
 (はなのあめ さんびかししゃを おくりけり) しまたに・せいろう

 高等部と大学に在籍した青山学院では、毎日、チャペルタイムがあった。1時間目の授業の後、高等部ではPS講堂に全校生徒が集まって、正味15分の礼拝が行われる。聖書を読み、牧師の先生がお話をしてくださる。
 年に数回は、卒業生のお話があった。卒業後に海外で布教活動をした人が訪れてのお話、歌手になったペギー葉山などが参加したのはクリスマス。讃美歌とともに先輩のお話が蘇ってくる。
 在校生が亡くなった時には、チャペルタイムで葬送の儀が行われた。ご両親も参加されて、讃美歌の312番の「いつくしみ深き、友なるイエスは・・」を唄った。
 高等部は、校舎から雨に濡れることもなく靴を履き替えることもなく、全員がPS講堂に入っていけたように思っているが記憶は曖昧である。

 倉田紘文の鑑賞は、「人の世のことごとに天なる自然は常に慈悲をもって包んでくれる。喜びごとには花の日和を授け、そして悲しみごとには花の雨で弔う。」であった。【Ⅰ合掌―故人を弔う】

 3・冬蜂の死にどころなく歩きけり  村上鬼城
 (ふゆばちの しにどころなく あるきけり) むらかみ・きじょう

 倉田紘文が、このシリーズで「死」のテーマを拝命した時、先ず心に浮かんだのがこの句であった。「死」という語が出ているが、まだ「死」に至ったわけではない。それどころか必死に「生」をかかえて生きているのだ。
 冬蜂はそのまま鬼城自身なのであろう。そしてさらに言えば、鬼城はまたそのまま私たちの誰でもあるのだ。」と、鑑賞している。【Ⅲ時空――自然・動物・植物】

 終戦後に生まれた私たちの子ども時代は、エアコンはなく、夏になれば窓を開け放している。夕方や夜には電球の灯をめがけて、蝉も蛾もカナブンも飛んできていた。
 冬蜂などのこうして力尽きて死ぬ寸前の姿を、誰もが見ていたに違いない。