第十七夜 中村苑子の「凧(いかのぼり)の句

 当時経営していた出版社蝸牛社で第一冊目は金子光晴の随筆集『相棒』であった。その後、ユネスコ・アジア文化センター主催の世界の絵本展が開かれ24冊の絵本を出版した。
 俳句では、シリーズで『秀句350選』を33巻、『蝸牛 俳句文庫』を17巻、、俳句と随筆の競演『俳句・背景』を16巻出版した。3番目の『俳句・背景』は右ページに5句、左ページは38字×16行の随筆である。この随筆が33テーマがあることで、読者にとっては作者の貴重なことを深く知ることができる。

 今私は、こうしてブログ「千夜千句」の千日目を終えて「あしたの風」の第十七夜目を書き続けているが、蝸牛社で出した書籍を繙けば、俳句の背景も鑑賞も、参考にして綴ることができることは有り難い。蝸牛社時代の私は編集に携わっていて、時には書き手であることもあった。
 例えば、本日の中村苑子さんは、『俳句・背景8私の風景』を読み返して参考にした箇所もある。

■第十五夜と第十六夜と綴った「死」のテーマをもう一夜続けてみよう。

 1・麗らかや野に死に真似の遊びして  中村苑子
 (うららかや のにしにまねの あそびして) なかむら・そのこ

 子どもの頃、小学校に入る直前から低学年の頃であったと記憶している。学校から帰って夕御飯までが遊びの時間である。宿題があれば夕食後に机に向かっていた。習い事でスケジュールが一杯という時代ではなかったから毎日が「今日は何をしようか?」と、友達同士で考える。わが家の前は幼稚園があり、家の前は空地、家の裏手には議員さんの広大なお屋敷と赤松や椎や樫などの雑木林があった。その向う側にも雑木林はあって、ここで子どもたちは集まって、さまざまな「ごっこ遊び」をしていた。
 家の床下は、子どもが潜っていけそうだった。その床下を竈に見立てて、私たちは、木切れや割箸を蒸焼にして炭を作ろうと
 雑木林の遊びのなかで地に寝転んでみたこともあったが、死んだふりの真似ではなかったように思う。
 「死」は、直ちに病院に運ばれるのではなく、私の祖母の場合など、徐々に弱っていく様子もお医者さんが毎日来ていたことも、間近に見ていて知っていた。【Ⅲ時空・春】

 2・凧なにもて死なむあがるべし  中村苑子
 (いかのぼり なにもてしなむ あがるべし) 
 
 凧は、手もないし紐でつながれているだけで本来なにも持ってはいないのだ。風があって凧の紐を操る人間がいるだけだから、風にまかせてその風のまま共にあるだけである。
 中七の「なにもて死なむ」は、なにも持っていない素手の凧であるから、風の意のままになるより外になすすべはないのだから、風のままに天空高く揚がればいいのだ。

 そうだ、凧にとってのプライドというのは、より高く「あがるべし」ではないのだろうか。【南無・春】

 3・人死んで枕残れる大西日  中村苑子
 (ひとしんで まくらのこれる おおにしび) 

 この作品は、夫高柳重信が昭和58年の7月8日の真夏にあの世に去っていった日のことである。「別れ」のページには次のように書かれていた。
 「閉めきったままになっていた高柳の寝室の窓を開けると、カッと灼けつくような西日が射して、寝床のシーツや枕をしろじろと照らし出し、一瞬目が眩んで崩れるように座り込んでしまった。(略)ただ人間が一瞬というほど、こんなにあっけなく死んでしまうものだろうか、しかも、あの高柳が、と不審でならなかった。」
 
 次の句は、高柳重信が亡くなる2年前に買っておいた富士霊園の二人の墓碑銘である。中村苑子俳句のファンである筆者の私は是非富士霊園を訪ねてみたいと思っている。【Ⅰ合掌―故人を弔う・夏】
  我が盡忠は俳句かな  高柳重信   盡忠(じんちゅう)」とは忠義を尽くす意。)    
  わが墓を止り木とせよ春の鳥  中村苑子
 
 中村苑子は、1913年(大正2)~2001年(平成13)。静岡県生まれ。「春燈」に入会、久保田万太郎に師事。その後、高柳重信の「俳句評論」に同人として参加。三橋鷹女に傾倒し、老や死をテーマに女性の情念を詠む。『吟遊』により詩歌文学館賞。蛇笏賞を受賞。