第二十三夜 芥川龍之介の「蝶の舌」の句    

 出版社「蝸牛社」で発行した『蝸牛 俳句文庫』の3巻目は、中田雅敏さん編著の『芥川龍之介』である。中田雅敏さんは、昭和45年生まれ、落合水尾に師事。俳誌「浮野同人」。
 久しぶりに『蝸牛 俳句文庫3 芥川龍之介』を読み直した。私にとって芥川龍之介は、俳人というよりも『羅生門』『鼻』など小説家としての印象が深かった。失念していたが、芥川龍之介は「餓鬼」の俳号で、高浜虚子の「ホトトギス」に投句していた一時期があった。
 略年譜には、龍之介が生まれた年に、実母ふくが発狂している。龍之介は、昭和2年36歳の時に帝国ホテルで2度心中未遂。同年、菊池寛に遺書を書いて、再び自殺未遂するが、7月24日永眠。出版の準備をしていた『澄江堂句集』は没後に刊行された。
 今宵は、芥川龍之介の俳句を紹介させていただこう。


 1・蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな
 (ちょうのした ゼンマイににる あつさかな)
 
 大正7年8月「ホトトギス」雑詠の一句。当初は、〈鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな〉であったという。龍之介はまず、花にとまって蜜や果実を吸う渦巻状の口を鋼鉄製のゼンマイのようだと見た。次に、くるくる巻きになっているゼンマイのような管が蜜を吸うときに伸びたり縮んで巻かれたりする忙しない姿を、「暑さ」ととらえたのだ。
 
 この景に出合ったことがある。茨城県の牛久沼の丘の上に、日本画家小川芋銭の住居兼アトリエがある。かっぱの絵を多く残し、沼を見下ろす丘は庭園になっている。私が取手市に住んでいた頃は車で30分ほどであったので、仕事の気分転換に犬を連れて出かけていた。
 あるとき、蝶がやってきて赤い花に止まり長い舌を出して蘂の蜜を吸いはじめた。人間がすぐ横にいて、ずうっと見ていたのに、ずいぶん長い時間であったことを覚えている。あのときの蝶の舌が伸びて縮んでくるくる巻かれている動きはまさしくゼンマイであった。

 2・木がらしや目刺にのこる海の色
 (こがらしや めざしにのこる うみのいろ)

 大正15年の作。当初の『餓鬼窟句抄』では〈凩や目刺に残る海の色〉であったが、『梅・馬・鶯』に所収される時に「木がらし」に改めたという。一句の要所の措辞には漢字にして、その間はかな書きにするというのが芥川龍之介らしい繊細さであるという。
 木がらしを聞きながら目刺を食べていると、新鮮な目刺の青から海の青さが見えてくるようであったというのだ。

 3・冬の日や障子をかする竹の影
 (ふゆのひや しょうじをかする たけのかげ)

 この句は大正11年1月20日小宮豊隆に宛てた作で、「こもり居」の前書がある。かすれる音を聞いて振り向いた時に竹の影が障子に映っていることを発見したという。はっとした様子が感じられる作である。

 私がこのような影に出合ったのは、句会場となった友人宅での一室であった。雨戸、ガラス戸、障子戸のある仏間であった。

 3・癆咳の頬美しや冬帽子            
 (ろうがいの ほおうつくしや ふゆぼうし)

 掲句は大正7年作。この頃の龍之介はスペイン風で寝ていたという。
 
 「癆咳」は「結核」のことで肺病の人のこと。新聞記者であった父は、戦時中は疎開していたが、終戦後に再び大分県から東京に出て仕事に復帰していた。昭和20年前後の生活は、相当に厳しいものだったようで母も経理の仕事をしていたが、田舎から祖母を呼び寄せて家事全般を助けてもらっていた。
 数年後、結核に罹ってしまった母は一年間の入院生活をした。若かった母は美しかった。この作品に、昔の母が重なった。
 父が見舞いにくるから、紅を差して待っていたのかもしれない。

 3・青蛙おのれもペンキ塗り立てか  
 (あおがえる おのれもペンキ ぬりたてか)
 
 大正8年3月作。龍之介の句と言えば、口にしやすい軽やかな作品を思い出す。
 「ホトトギス」に掲載されると、友人の一人から「ジュール・ルナールの『博物誌』に「とかげ、ペンキ塗り立てご用心」があると指摘された。龍之介は即座に、だから「おのれも」としてあると答えたと言う。
 
 ジュール・ルナールの作品『にんじん』の主人公は、今も時々思い出す少年である。女の子であった私にも、今思えば理屈では言い表すことのできない不可思議な反抗心が、確かに存在していた時期があった。