第九十三夜 能村登四郎の「春」の句

  春ひとり槍投げて槍に歩み寄る  能村登四郎『枯野の沖』

 鑑賞をしてみよう。
 
 青年が広いグランドで槍投げをしている。力いっぱい投げ終えた青年は飛距離を確かめるべく槍に歩み寄る。槍を抜き元の位置に戻り、再び投げる。青年は一投一投工夫しながら、黙々と投げている。
 「春ひとり」とあるがグランドに一人というわけではなく、スタートダッシュの練習、野球の素振り、テニスコートのボールの音がある。そうした物音は、槍投げという自分との孤独な闘いをしている青年には無いに等しい。「槍投げて槍に歩み寄る」のゆったりした描写から、一連の動作が繰り返されていることが目に浮かぶ。
 「春ひとり」には、気候のなかなか定まらぬ春の遅速から物憂さが感じられる。この句においては青年の孤独や倦怠感を表現したのであろうが、さらに言えば、自己の俳句を常に顧みながら前へと挑んでゆく能村登四郎という詩人の孤高の魂を表現しているとも言えよう。

 能村登四郎(のむら・としろう)は、明治四十四年(1911)―平成十三年(2001)、東京都台東区生まれ。建築業の家庭は大家族で裕福であった。身体の弱かった登四郎は十五歳の頃に母方の伯父から俳句の手ほどきを受けたという。國學院大學国文科では折口信夫に学び、卒業後は国語教師となった。
 昭和十四年、水原秋桜子の抒情句の新鮮さに惹かれて門下となる。第一句集『咀嚼音』では教師としての生活を中心に詠み、第三句集『枯野の沖』では代表句となった〈火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ〉など心象風景へ深化したものを詠み、第六句集『有為の山』の〈辛夷咲く死の明るさもこれ位〉の頃からは「死」と「老」など飄逸さが特徴の悠遊自在の境地を得ている。
 句集『枯野の沖』刊行後、能村登四郎は「沖」を創刊主宰する。
 
 各句集には、必ずというほど季題「白地」の作品がある。白地とは染める前の白い生地であるが、俳句では夏の「白絣」をいう。〈白地着て血のみを潔く子に遺す〉〈白地着て言葉の柾目通しけり〉のように、父譲りの加賀強情の血と母譲りの江戸っ子気質あっての、「白地」を好む登四郎であった。白は潔癖で凛としてお洒落であり、つねに無から有へと挑戦してゆく色である。
 
 もう一句紹介しよう。

  紙魚ならば棲みてもみたき一書あり 『長嘯』  

 紙魚(しみ)となってでも古書に棲んでみたいと能村登四郎が詠んだ「一書」に、じつは私は憧れていた。そこで図鑑で「紙魚」を確認した。嗚呼見なければよかった、知らない方がよかった・・。一センチほどの白っぽい虫で、本だけでなく風呂場にも布団にも絨毯にもいるという。
 しかし、この虫を紙魚と名付け、紙魚の漢字を当て、季題にした人は凄い。この飄逸さも登四郎俳句の一面であった。