第三十夜 われらの八成小学校 

 昭和20年度生まれの私たちの小学校時代のことに触れてみよう。懐かしく思い出したきっかけは小学校の同窓会をしましょう、という案内状が幹事の山本勝之くん、葛巻(旧姓津田)千恵子さんから届いたことにある。
 私たちが卒業した小学校は、杉並区下井草に新設された区立八成小学校である。
 4年生になった春の初め、この新設校へ近隣のいくつかの小学校から集まったのは、多くは桃井第五小学校からの生徒たちであった。桃井第五小学校へ通うには西武池袋線の線路の無人踏切を越えて行かなくてはならなかった生徒たちである。
 この無人踏切でかつて人身事故があったという。常に大きな不安を抱えての通学が要因となって、踏切の北側に住む生徒たちのために学校が新設されることになった。
 
 こうして、私たちは新設された八成小学校へ転校したのであった。

 印象深く一番に思い出すのは、これまで三年間を過ごした桃井第五小学校を離れる際に、生徒全員に西武線の線路際まで見送られて、私たちは新設された八成小学校へと列になって歩いた時のことだ。
 次のように俳句に詠んでみた。

  春田道八成小へお引つ越し
 (はるたみち はちなりしょうへ おひっこし)

  線路越え八成小へ春田道
 (せんろこえ はちなりしょうへ はるたみち)

 こうして無事に八成小学校へと引っ越しが済んだ私たちは、その後の4年生、5年生、6年生の3年間、常に最上級生の自覚をもって小学校生活を終えることができた。今考えてみても、驚くほどの貴重な体験であったと思っている。

  六十名のクラス担任久田芳
 (ろくじゅうめいの クラスたんにん ひさだよし)

  わが春や最上級生四年生
 (わがはるや さいじょうきゅうせい よねんせい)

 4年生と5年生の2年間を担任してくださったのが久田芳先生。理科が専門であった久田先生の授業ではビーカーや秤やランプなど実験道具をいっぱい使ったことを思い出す。棚から出すときも授業を終えて棚に仕舞うときも、宝物をあつかうような楽しい遊びのようであったことを思い出す。
 また、一クラスが60数名なので、教室はぎゅうぎゅう詰め。太った家庭科の女の先生は、後ろで騒いでいる男の子を叱らなくてはならず、机と椅子の間を抜けて後ろまで行くのが大変そうだったことを覚えている。

  二つのクラスへ別れの春となり
 (ふたつのクラスへ わかれのはるとなり)

  担任は芝崎春子となりし春
 (たんにんは しばざきはるこ となりしはる)
 
 6年生になって、クラスは二つに分かれ、1組は久田先生、2組の担任は新任の芝崎春子先生になった。6年生になると男の子たちの心も複雑になっていた。たとえ問題の答えが解っていても手を挙げることはない。正解をぶつぶつ言っているのは、笠松くん、前畑くん、伊藤くんだったと思う。「重石さん、わかりますか?」と訊かれた私は、誰も手を挙げないので、後ろから聞こえてくるままを答えた。「はい、そのとおりです!」と、私が褒められてしまった。
 このように小学校の思い出は尽きることはない・・。

 同窓会の案内状を送ってくださった山本勝之くんは1組。「行こうよ!」とメールをくださったのは、小学校卒業後もずっと行き来があり、ここ30年ほどは俳句を通しての仲間となっている、当時1組であった川崎和子さんこと片山和子さんである。
 77歳の喜寿を過ぎて、玄関先で転んで大腿骨頸部骨折をしてしまった私は現在は外出する時には杖をついているが、雨が降ると杖と傘をもっての歩行は危ないので止められている。
 茨城県守谷市に住む私が都心に出るには、つくばエクスプレスで先ず秋葉原に出る。そこから井荻までは、混雑する山手線と西武線を乗り継いで行かなくてはならない。
 同窓会の行われる井荻駅まではエスコートなしではとても無理であると、娘からも夫からも「無理はするなよ」と言われてしまった。
 
 こうしてパソコンを使っての一文ならば書くこともできるし、またつたない俳句を詠んで、心をお伝えすることも可能である。今思い付いたことは、小学校時代の思い出の俳句を詠んで当日までに色紙に書いてお届けしたい、ということである。

 八成小学校卒業当時は、2組の重石ミホであった。