第九十六夜 石田波郷の「沙羅の花」の句

  沙羅の花捨身の落花惜しみなし  石田波郷 『酒中花以後』
  
 「沙羅の花(しゃらのはな)」は別名「夏椿(ナツツバキ)」。釈迦入滅のとき四方を囲んでいた沙羅双樹の花が枯れたという逸話があるが、ナツツバキはインドの沙羅とは別であり、このナツツバキを沙羅の木として愛好している。朝に開いた沙羅の花は、たった一日で命を終え、咲いていた花の形のままに、椿と同じく花を上向きに落下する。翌朝、昨日の沙羅の花が朽ちぬままの姿で散り敷かれているのは美しい。
 
  鑑賞をしてみよう。

 昭和三十九年の作で、翌四十年には呼吸困難になっていることからも、体力の衰えとともに、戦後には一時身近だと思われた「死」が再び近づくのを感じたのであろう。「沙羅の花」も「捨身」も、沙羅双樹の下で涅槃仏となった釈迦を思わせる。「捨身」は仏教の「捨身往生」又は「捨身成道」の意であるが、波郷は、人生を俳句に捧げきって悔いなしと、その沙羅の落花の潔さに己を重ねた。
   
 石田波郷(いしだ・はきょう)は、大正二年(1913)―昭和四十四年(1969)、愛媛県松山市生まれ。昭和五年、師の五十崎古郷と「馬酔木」に入会し、水原秋桜子に師事。上京した波郷は「馬酔木」の編集に携わり、〈プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ〉などモダンな都会生活を詠んで同人となる。昭和十二年、「鶴」を創刊主宰。昭和十七年には「馬酔木」を離脱。
 戦後の、肺病の度重なる手術による病苦と孤絶の世界を詠んだ『惜命(しゃくみょう)』の〈雪はしづかにゆたかにはやし屍室〉〈七夕竹惜命の文字隠れなし〉など絶唱である。

 波郷の初学時代は、「ホトトギス」の秋桜子、素十、誓子、青畝という「四S」作家の全盛時代であった。後に波郷は、自分の師系は「虚子―青畝―古郷―波郷」であると言い、「俳句の韻文精神徹底」を唱え、俳句に「伝統の彼方、鬱然たる古典の高さを思い、それに競い立とう」という理想を掲げて以後の実作において示し続けた。
 遂に虚子門となることはなかったが、「ホトトギス」の虚子が格調高い伝統俳句を「花鳥諷詠」において試みたのと同じく、波郷はいわば「人生諷詠」における試みで、伝統俳句を目指した。
  
 もう一句紹介しよう。
 
  ひとつ咲く酒中花はわが恋椿 『酒中花』
  
 「酒中花」は、江戸時代からある古典品種の八重の椿。紅覆輪品種としては一番古く、名の由来はお酒に酔ってほんのり赤くなったイメージからである。樹木派といわれ、椿好きの波郷がとりわけ愛したのがこの酒中花であった。波郷は練馬区谷原に住み、広い庭を椿の園のようにしていたという。
 筆者の私も、昭和六十年頃から父母と一緒に谷原に住み始めたが、波郷は昭和四十四年に亡くなっていて家屋敷もなかった。波郷の好きな父と、かつての地に記した立て札を見に行ったことを思い出す。