紅梅の紅の通へる幹ならん 『五百句』
「紅(こう)の通へる幹」とはどのような幹だろうと随分と長いこと気になっていた。わが街の「ふれあい通り」は桜並木が10キロほど続いている。数年前にやっと気づいたのだが、二月頃から桜並木の枝々が賑やかになり、桜の幹も血潮の赤さを帯びて赤黒いほどであった。
私はこの桜並木に「紅の通へる幹」を感じた。「さあ、これから花を咲かせよう」と言わんばかりの桜の幹の昂りの色であった。
今回、紅梅の幹をなぜ「紅の通へる幹」と詠んだのか気になった。図書館で『山渓 日本の樹木』で調べると、「紅梅系は多くは紅花で、枝の髄が赤いのが特徴なので、枝を折ってみると区別できる。たとえ白花でも、枝を折ってみて、赤い材なら紅梅系」であるという。だが、赤い血潮のような樹液が流れているとは書かれてはいない。
鑑賞をしてみよう。
深見けん二の著書『虚子の天地』(蝸牛社刊)の中に、鑑賞が書かれているので、そのまま紹介させていただく。
「紅梅を見ているうちに、その幹にも紅が流れているに違いないと感じている句。紅梅科の梅は枝の断面に紅が滲んでいるが、そうしたことを知って作ったのではなく、紅梅に心を通わせているうちに、自ずと詩の世界で実感されたものであろう。」
この句は、昭和六年三月二十一日、赤星水竹居の葉山の別邸で行われた「七宝会」で詠まれたものである。「七宝会」は能の好きな人の集まりで、メンバーには能楽者もいる。この会では先に謡をした後に句会が行われる。謡が済むと、虚子も庭へ下りて、この紅梅に立ち、心をよせて詠んだ句である。
謡の曲目はわからないが、心持ちは能の世界に漂いはじめ、やがて虚子の目には、紅梅が後シテの女人となってが現れて舞を舞い始めたのかもしれない。
それにしても句姿のなんと美しいことだろう。
もう一句、紅梅の句を紹介しよう。
紅梅や旅人我になつかしく 『五百五十句』 小諸懐古園
『小諸雑記』では、虚子はこんな風であった。
ある日のこと私は懐古園に杖を引いて見ると、其処に一つの紅梅があつてその蕾はもう既に赤く膨らんでゐた。
「あゝ此処に紅梅がある。」と私は思った。さうして紅梅を尋ね当てたことに満足を覚えた。必ずしも我が庭になくてもいゝのである。
どこかにありさへすればいゝのである。
私の住む守谷にも紅梅が咲き始めている。私も今日、大きな古い屋敷が多い裏道で八重の紅梅の枝垂桃を尋ね当てた。