第百一夜 上田祥子の「ほほづき」の句

  不器用に生きてほゝづき鳴らしけり  上田祥子

 ホオズキ(鬼灯、酸漿)は、旧かな遣いでは「ほほづき」。ナス科で六月頃に淡い黄色い花が下向きに咲き、花の後に、六角状の萼が伸びて果実を包み袋状になる。秋には赤いホオズキとなる。盆には、先祖が帰ってくるとき目印となる提灯の代わりとして盆棚に茎ごと飾ったりする。
 
 鑑賞をしてみよう。
 
 昔の女の子たちは、秋になると真っ赤に保熟した丸いホオズキの果実で遊んでいた。果実は楊枝で、中身をくり抜いて風船のようにする。破らないようにするのがむつかしい。口の中で舌を上手に動かして、風船のホオズキに空気を入れ、次にギュッと風船のホオズキを潰すときにキュッキュッと音が鳴る。
 一人っ子の私はホオズキ遊びの落ちこぼれだったが、上田祥子は、姉も妹もいたから練習もして、きっと上手に鳴らせたに違いない。

 この作品の眼目は「不器用に生きて」であろう。
 この 不器用は、たとえばホオズキを上手く鳴らせないなど、生きる上でのスキルが足りないということでは勿論ない。優秀な彼女が、高校の授業の合間にチラッと見せていた「つまらなさそうな顔」は、きっと「人に合わせる」とか「上手くやる」という生き方が何だか嫌(イヤ)だったのではないだろうか。彼女との長年の付き合いの中で思っていることは、感性が鋭く思いやりがあり、絶対にウソのない人であり、何をするにも手を抜かない・・不器用なほどに手を抜かない人であるということである。
 
 現在、彼女は病と闘っている。ご主人もまた病と闘っている。そして、お互いはお互いを守っている。今も、これからも、ずっと不器用かもしれないけれど、彼女の鳴らす「ほゝづき」の音は、これまでの人生を肯定し、これからも頑張り続けよう、という温かな決意の響きがする。
 もう一度、口遊んでみよう。
 
  不器用に生きてほゝづき鳴らしけり
 
 上田祥子(うえだ・よしこ)は、俳人ではないが、読書の好きな七十四歳の文学少女。アメリカ文学では卒論にしたサリンジャー、日本文学では村上春樹など読み続けている。筆者の私とは中学、高校、大学の英米文学科とずっと一緒で、夫よりも長い付き合いの友人。この作品は、俳句の本を多く出版していた蝸牛社が、「インターネット俳句会」をしていた折に参加してくれたもので、ある年の年間大賞となった句である。