第百七夜 皆吉爽雨の「螢火」の句

  舸子の手のぬれて螢火くれにけり 『雪解』

 作品をみてみよう。
 
 「舸子(かこ)」は水夫のことで舟を操る人。潮来の螢を見ようと水郷を舟でゆくと、辺りには螢がどんどん飛び交っていて、すぐにでも掴まえることができそうだ。すると水棹を操っていた舸子は、濡れた両手で螢を掬い取るようにして摑むと、すぐに客の手囲いに入れて呉れた。
 その手囲いを漏れる螢火のなんとも美しいこと。直接の表現はなくても「けり」の詠嘆の切れ字で美しさは伝わってくる。「ぬれて」は、舸子の手が濡れていたのか濡れているような螢火であったのか、だが、いずれ水郷を飛ぶ螢のたおやかな灯である。
 
 第一句集『雪解』の序文で、師の高浜虚子は皆吉爽雨を「かくの如く気が利いて一句を成すということは作者の心が常にひきしまつてゐるのに依るのであつて、この懈怠のないといふことは俳句を打成する上の必要な条件の一つである」と評し、〈鴨の陣ただきらきらとなることも〉などの作品を「気が利いていながらもゆとりがあり、品格があるようになつて来た」と、今後の期待を述べている。

 皆吉爽雨(みなよし・そうう)は、明治三十五年(1902)―昭和五十八年(1983)福井市生まれ、丸岡町、三国町に育つ。大正八年、住友電気工業に入社し、そこで大橋櫻坡子と出会い俳句の指導を受け、「ホトトギス」に投句し高浜虚子に師事する。
 大正十一年、「山茶花」創刊に参加。昭和十一年、「山茶花」選者。昭和二十年に上京、昭和二十一年に「雪解」を創刊・主宰。昭和四十二年、第八句集『三露』その他の業績により第一回目の蛇笏賞を受賞。享年八十一。〈裸子の五体といふを見やりけり〉は、同居していた孫である俳人・皆吉司。
 
 晩年の作品を紹介しよう。

  散る花にたちて身よりも杖しづか 『聲遠』
  初夢を言ひあふに死の一語あり 『脚註名句シリーズ 皆吉爽雨集』

 一句目、落花に身をおく心のしづかさを、下五で「杖しづか」としたことによって、一層の心の安寧さが際立つものとなった。
 二句目、最晩年の作品。八十一歳となった皆吉爽雨にとって死は、中七の「言ひあふに」から感じられるように、忌み嫌うことなく、会話の中に入ってしまう語であろう。