第百九夜 加藤知世子の「昼寝」の句

  何か負ふやふに身を伏せ夫昼寝 『朱鷺』 

 加藤知世子が加藤楸邨の妻であり俳人であることも知ってはいたし、楸邨は大好きな作家の一人であるが、じつは、知世子の作品は『現代女流俳句全集』を読んで初めて知ったという次第である。
 頁を繰りながら「夫」の文字をたどるように作品をみてゆくと、なんとも正直な、ユーモアさえ感じさせる夫・楸邨像が見えてきたではないか。

 〈怒らねば我がくむ新茶すするのみ〉〈怒ることに追はれて夫に夏痩なし〉の二句は、第一句集『冬萌』の作品。そこには、怒りん坊の夫・楸邨が詠まれていた。
 わが家にも怒りん坊の夫がいるので、場景が手にとるようにわかる。しかも、怒りん坊の夫と渡り合うには、妻がつねに下出になるのは、精神衛生に悪いし、心が折れてしまう。ほどよく躱し、ときにはお返しのパンチも必要だ。
 俳人加藤知世子は、怒れる夫楸邨を描写した。

 知世子の作品を読むと、〈鰯雲人に告ぐべきことならず〉〈寒雷のぴりりぴりりと真夜の玻璃〉など、厳しく己の俳句の道を追い詰めていく『寒雷』の頃の楸邨俳句が蘇ってくる。そして『寒雷』の中に、〈秋刀魚焼き妻はたのしきやわが前に〉を見つけたときほっとした。
 これが「割れ鍋に綴じ蓋」という夫婦の在り方なのだろう。
 
 掲句をみてみよう。
 
 知世子は夫のことを「楸邨は自分が納得出来ないことには、どんなに誤解されようと又損をしようとも、てこでも自分の姿勢を曲げないことに徹しました」と、『現代女流俳句全集』の文集の中で述べているが、「何か負ふやうに身を伏せ」の措辞から、戦後の俳句界での様々の出来事――作品を褒められるばかりでなく軋轢もあろう、そうしたことに耐えている楸邨の姿が見えてくる。
 知世子は、夫の仕事に口を出すことはなく、ひたすら、辛さを思いやり黙って側にいた。
 
加藤知世子(かとう・ちよこ)は、明治四十三年(1909)―昭和六十一年(1986)、新潟県東頸城郡安塚(現上越市)生まれ。昭和四年、加藤楸邨と結婚。昭和六年、富田うしお主宰の「若竹」に参加。「馬酔木」に投句。昭和十五年、楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。昭和二十九年、殿村菟絲子、柴田白葉女らと「女性俳句」を創刊、編集に携わる。夫楸邨の「奥の細道」研究に同行。

 次に紹介するのは、楸邨の「奥の細道」研究に同行した折の作品。

  舌見えて小貝は乗り来月の波 『夢たがへ』

 芭蕉が、『奥の細道』の旅で〈浪の間や小貝にまじる萩の塵〉と詠んだ色の浜である。楸邨と一緒に波打ち際で、萩の花びらほどのますほの小貝を見つけ、夜には月光の海辺で、足元にひたひた満ちてくる潮を透かしてみた。知世子は、小さな舌をひらひらさせながら小貝が波に乗って来るのを見たという。
 小貝のこのような姿に、私も、ぼーっと波間に揺蕩っていた。