第百十夜 野澤節子の「蜘蛛」の句

  われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず 『未明音』
  
 昭和三十年に刊行した『未明音』は、フェリス和英女学校に入学した翌年に十三歳という若さで肺浸潤と脊椎カリエスにかかり、自宅療養ではあるが長いことギブスの生活を強いられていた頃の作品が収められている。どんなに外の世界へ行きたかったであろう。カリエスが完治し外出許可が出たのは昭和三十二年、節子は三十七歳になっていた。
 だが、二十四年の間に俳句の道に入り、室内にある〈冬の日や伏して見あぐる琴の丈〉を詠み、畳の上で弾くことは叶わないが、〈春昼の指とどまれば琴も止む〉のように、寝ながら指を動かして、かつて習っていた通りに指を動かすことはできる。節子の心の内は、誰にも邪魔されない自由があった。
 
 掲句は次のようであろうか。
 
 節子は昼も横たわっているから真夜中に目を覚ましていることが多い。読書をしたり俳句を作ったりしている時間である。そんな時だ、天上から蜘蛛が糸をくり出しながら下りてきたのは。「わたしの大切な時間を邪魔する蜘蛛は、絶対に許せない!」と怒り、もしかしたら握り潰してしまったかもしれない。
 長いこと臥せっている節子にとって、動くものに敏感に激しく反応する。とくに今宵は、自由に動き回る一匹の蜘蛛だって宥(ゆる)すことはできない。

 野澤節子(のざわ・せつこ)は、大正九年(1920)―平成七年(1995)、横浜市生まれ。昭和七年、フェリス和英女学校に入学するが、その翌年に脊椎カリエスを発病したため中退。自宅での療養生活。在学中、「汝は罪人なり」の言葉で信仰を強いる教師に密かに反発し、病中も受洗しなかった。
 病に臥した彼女は、哲学書を初めとした書物を濫読。その中に俳句の出会いとなる松尾芭蕉の『芭蕉七部集』に出会う。大野林火の『現代の俳句』に感動した節子は、臼田亜浪主宰の「石楠(しゃくなげ)」に入会。その後、大野林火創刊の「浜」に参加。林火の抒情的句風に傾倒。昭和三十年、第一句集『未明音』を刊行。現代俳句協会賞を受賞。昭和三十二年、宿痾であった脊椎カリエスが完治。草月流いけ花を習い、いけ花を教えるようになる。昭和四十六年、第四句集『鳳蝶』により、読売文学賞を受賞。同年、主宰誌「蘭」を創刊。

 好きな句を紹介しよう。

  赤子涼しきあくびを豹の皮の上 『花季』
  さきみちてさくらあをざめゐたるかな 『飛泉』

 一句目、かなりの字余りと破調の句であるが、赤子の愛らしさと「豹の皮」の意外さに惹かれて情景を想像してみた。豹の皮の敷物のある場所はどんなお屋敷だろう。ホテルのロビーの長椅子だろうか。豹の皮の敷物の上に寝かされている赤子が涼し気なあくびをした。猛獣の豹が口を開けたのではなく、赤子の小さな口だ。
 二句目、全部ひらがな表記にしたことで、さくらの色は、満開になったときの色である青ざめた白に統一された。