第百十一夜 伊藤柏翠の「菊枕」の句

  俳諧に命あづけて菊枕  昭和二十二年

 伊藤柏翠というと、すぐに高浜虚子の『虹』を思う。『虹』は、「虹」「愛居」「音楽は尚ほ続きをり」「小説は尚ほ続きをり」から成る四部作で、主役の愛子や柏翠や福井県の三国のことを、二作目「愛居」(『現代日本文学全集六十六 高浜虚子集』筑摩書房)の巻末に、虚子は次のように記している。

 「越前の三国の或富豪の外腹に、愛子という娘があつた。鎌倉の七里ヶ浜の病院に長く入院してゐた。その頃に柏翠といふ俳人が同じその病院に入院してゐて、俳句を作り入院患者に教へてゐた。その中に愛子もゐた。二人は自然に親しくなつて行つた。二人は連れ立つて私の處に来た事もあつた。愛子は退院して三国へ帰つた。柏翠も退院して三国へ行つた。愛子の生みの母なる人は、もと芸者であつた人で、三味線も踊も達者な人であつた。別に一戸を拵へて貰つて裕福に暮してゐた。このような関係の下に、この「虹」といふ一連の小説(?)ははじまつてゐるのであつた。」(文中の(?)は、虚子自身が付したもの)
 
  掲句をみてみよう。

 『虹』が生まれたのは、昭和十九年、虚子が小諸に疎開してきたことが大きい。鎌倉や東京や関西から、虚子のいる長野県小諸の家に俳人たちが訪れ、句会や吟行会があり、森田愛子も元気な間は母と一緒に参加して、小説「虹」となった。
 柏翠が三国に来た頃からは愛子は臥せっていることが多くなっていた。

 掲句は、虚子が見舞いに訪れて、三人で句会をした折のものであろう。愛子は〈かさと鳴る菊の枕に酔ひ心地〉と詠み、虚子は〈明日よりは病忘れて菊枕〉と詠んでいる。「菊枕」は兼題。虚子は、虚子と共にする句会が俳人たちの何よりの喜びであることを知っていた。病に臥せっている愛子もまた、虚子にねだってでも句会がしたかったのだと思う。
 柏翠が詠んだのは愛子。よい香りの菊枕に病身を預けるようにして横たわっている。だが、命を預けているのは菊枕ではなく俳諧である。句会をすること、俳句を詠むこと、心を燃やすこと、それが何より今の愛子の生きる励みになっている。

 伊藤柏翠(いとう・はくすい)は、明治四十四年(1911)―平成十一年(1999)、東京浅草生まれ。 父櫻孝太郎の外腹の子。父の友人伊藤専蔵の養子となるが、義母・義父の死別により若くして天涯孤独の身となる。昭和四年、結核のため鎌倉の鈴木療養所に入所。昭和六年より作句、「ホトトギス」初入選。鎌倉句会で虚子や立子やたかし等と句会を共にする。昭和十五年、「九羊会」に入会。昭和十七年、療養所を退所した愛子を追って福井県の三国を訪れ同居。昭和二十年「花鳥」創刊、主宰。昭和二十二年愛子死去。
 
 柏翠の作品をもう少し紹介しよう。
 
  帰る雁得度の心定まりし  昭和三十三年 
  山曰く眠る木曰く落葉せん  昭和三十三年
  
 一句目、福井県の永平寺不老園で、俳人柏翠は、禅師の句に朱を入れて添削することもあった。その因縁を思い、柏翠は禅師の弟子となって得度する決心をした。得度式は道元禅師の古式にのっとり行われ、「梅庵天心柏翠居士」となった。
 二句目、独特の調べと格調の高さの作品。『自註現代俳句シリーズ 伊藤柏翠集』には「自然は緘黙している。時にこちらの心が澄んでくると、自然が互いに語り合うのを僅かに聞くことができる。」とあった。