第百十四夜 星野立子の「下萌」の句

 今日は、星野立子の「下萌」の句を鑑賞してみよう。

 季題「下萌(したもえ)」というのは、「早春の大地のそこここから草の芽がほつほつと萌え出す。確実に春の気配が感じられる」頃のことで、ちょうど今頃である。利根川を越えた茨城県側に住む私は、晴れた日には夫と犬を連れて土手道を歩いてゆく。土手を下りると広大な河川敷がある。
 立子の「下萌」の三句は、深い世界、独自の世界が広がっていた。
 
  下萌にねぢ伏せられてゐる子かな 『立子句集』
  
 掲句は大好きな作品の一つ。まず「下萌にねぢ伏せられて」が独特な表現である。助詞の「に」は時間的・空間的な位置や範囲を示す用法。普通は、「大地に」とか「兄に」とか具体的な名詞に付いて用いると思う。しかし「下萌」は「草の芽がほつほつ出ている大地」を表す状態の名詞なので、すこし不思議な用い方である。ねじ伏せられているのは男の子で、ねじ伏せているのは喧嘩相手の男の子であるのに、まるで「下萌」にやっつけられているかのように思わせる。ここが立子の手腕であり、詩であろう。
 喧嘩しているのか相撲をとっているのか、男の子は分が悪くなって、芽吹いたやわらかな草の上にねじ伏せられている。草色の絨毯をバックにして、悔しそうな、泣き出しそうな、負けん気に歪んでいる顔は、大人から見るとじつに可愛らしい。勝ってもいい、負けてもいい、勝ち方も負け方もどちらも教訓となる。
 
  下萌えぬ人間それに従ひぬ 『笹目』
 
 冬枯れの中に、春が来て、大地に貼り付いていたタンポポの葉は起き上がり、フキノトウは可憐な芽を出し始めている。私たち人間は、「ああ、春だ」と思う。卒業式があり入学式があり新成人があり、人はさまざまに動き出す。大いなる自然の運行の中で、人間の決めた掟ではあるが、人間はそれに従って生きているのだ。
 この句こそ教訓的である。「人間」を詠んだ作品には、次のような〈雲の峰人間小さく働ける〉という句もある。
    
  下萌えて土中に楽のおこりたる 『實生』
  
 「楽」は音楽のこと。土の中では、芽吹こうとしている草たちの蠢(うごめ)きがあり、冬眠から醒めていざ地上へとモグラもアリもクマも準備している。そうした動きの全ての音が「楽」なのであろう。やわらかな草の上では、人間は靴を履いていても足の裏がむずむずする。土中の楽の音の響きのせいであろう。たとえば早春のイヌフグリがほつほつ咲き出すのは、楽の音に合わせているのかもしれない、と想像するだけでも愉快だ。