第百十七夜 上村占魚の「蟻穴を出づ」の句

  蟻かなし穴出づる日も土を咥(くわ)へ 『上村占魚全句集』
 
 掲句をみてみよう。
 
 『現代俳句案内』(立風書房、1985年)は、当時の俳句隆盛を導いた俳人たちが自作について語っている。この作品は多くの歳時記に例句として取り上げられてをり、占魚は、子どもの時分から小動物が好きで、とくに可愛いという蟻の句を選んだ。

 掲句の作品の季題は「蟻穴を出づ」。「蟻」は、ハチ目アリ科の昆虫で夏に活発に動き回る。春には穴から出てくるので、冬は巣穴の中でじっとしている。自ら体温調節ができないから、蟻は、気温の低い時期は地中や木の穴で寒さを避けて過ごしている。だが、冬眠ではなく冬ごもりであるという。
 地上で見る蟻はいつだって動き回っている。
 目まぐるしく動く蟻を、日がな一日、庭に頬杖をついて観察していたのは画家の熊谷守一。見続けていて分かったことは「蟻は左の二番目の足から歩きだすんです。」であった。
 一方、上村占魚は、冬ごもりしていた蟻が、ようやく暖かくなって穴を出るとき、その中の一匹が、口に土を咥えて現れるのを見た。

 占魚は、「わたしはその蟻を目にしたとき心のうちにじいんとするものをおぼえた。働くのがなんぼ習い性となっているとはいえ、それほど働かねばならぬのかと、蟻のために悲しんだ。」と言った。
 占魚は、そうせざるを得ない蟻の性(さが)というものを見て取り、「蟻かなし」と言い止めた。

 上村占魚うえむら・せんぎょ)は、大正九年(1920)―平成八年(1996)、熊本県人吉市生まれ。東京美術学校卒業。俳人、漆工芸作家、随筆家。俳句は、後藤是山、松本たかしに師事、その後、高浜虚子に師事し「ホトトギス」同人。昭和二十四年、二十九歳で「みそさざい」を創刊・主宰。昭和三十四年、虚子の没後に「ホトトギス」を離脱。俳句は「徹底写生 創意工夫」の姿勢を貫いた。

 先師松本たかしが、五月十一日に亡くなったときの作品をみてみよう。〈たかし忌の花なんでもいいには非ず〉という句もある。
 
  夏場所の新番つけも棺にをさむ 『一火』
  
 松本たかしの父は、宝生流能役者の松本長(ながし)。川端茅舎はたかしを「生来の芸術上の貴公子」と評したほど、立ち居振る舞いから和装にしろ洋装にしろ、特有のモダンなセンスに溢れていたという。たかしの納棺の際、他の思い出の品々と一緒に夏場所の新番付も収めたという句である。たかしが相撲ファンというのは意外な感じもするが、相撲好きの一面があったのだろう。妻である俳人つや女の亡き夫への細やかな心配りである。